呉陵軒可有 (ごりょうけんあるべし)
【概説】
江戸時代中期の文人、雑俳作者。川柳(川柳風狂句)の祖である柄井川柳(初代)の門人であり、師が選定した優れた付句を編纂して『誹風柳多留』を刊行した人物である。前句付の流行の中から、独立した「川柳」という新たな文芸ジャンルを確立・普及させる上で決定的な役割を果たした。
『誹風柳多留』の誕生と編纂事業
江戸時代中期、都市庶民の間では、提示された「前句(七七)」に対して「付句(五七五)」を考案して競い合う前句付(まえくづけ)が爆発的な流行を見せていた。その点者(選者)として圧倒的な人気を博していたのが、浅草の柄井川柳(初代川柳)であった。川柳のもとには日々膨大な数の句が集まり、彼はその中から優れた句(勝抜句)を選び出していた。
呉陵軒可有はこの柄井川柳の門人であり、師が選んだ膨大な勝抜句の中から、さらに文学的価値の高い秀句を厳選・整理する作業を行った。そして明和2年(1765年)、これらを集大成した選集『誹風柳多留』(ひふうやなぎだる)の初編を世に送り出した。可有は単なる収集にとどまらず、前句付という「遊び」の枠組みから、五七五のみで自立した鑑賞に堪えうる「詩」を抽出し、一冊の書物として結晶化させたのである。
川柳の「独立」と江戸庶民文化への影響
可有が果たした最も重要な歴史的意義は、それまで前句付という遊戯の従属物、あるいは「雑俳」という俗なジャンルの一形態に過ぎなかった五七五の付句を、独立した文芸としての「川柳」(川柳風狂句)へと昇華させた点にある。『誹風柳多留』の刊行により、読者は前句を意識することなく、五七五の17音だけで表現された機知(うがち)やユーモア、社会風刺を純粋に享受できるようになった。
『誹風柳多留』は当時の江戸市民に熱狂的に受け入れられ、その後、幕末から明治期に至るまで書き継がれる大ロングセラー(全167編)となった。この成功により、川柳は俳諧や狂歌と並ぶ江戸を代表する庶民文芸としての地位を不動のものとした。可有の優れた編集手腕と鑑識眼がなければ、今日知られる「川柳」というジャンルそのものが定着しなかった可能性すらあり、日本文学史・文化史上における彼の功績はきわめて大きい。