プチャーチン

ペリー来航の直後の1853年に長崎に来航し、開国と国境の画定を求めてのちに日露和親条約を結んだロシアの使節は誰か?
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重要度
★★★

プチャーチン

1803〜1883

【概説】
ロシア帝国の海軍提督であり外交官。1853年に長崎に来航して江戸幕府に開国と国境画定を求め、1855年に日露和親条約(下田条約)を締結した。ペリーと並び、幕末の日本を開国へと導き、近代の日露関係の礎を築いた重要人物である。

ペリー来航と同年の長崎来航

アメリカのペリー艦隊が浦賀に来航し、日本中が騒然となっていた1853年(嘉永6年)の約1ヶ月後、エフィム・プチャーチン率いるロシア艦隊が長崎に入港した。ペリーが日本の法を無視して江戸湾に侵入し、軍事力を背景に威圧的な態度で開国を迫ったのに対し、プチャーチンは幕府の定めた正式な外交窓口である長崎を訪れ、平和的かつ理路整然とした態度で交渉に臨んだ。この紳士的な姿勢は、川路聖謨(かわじたきあきら)ら幕府の交渉担当者からも高く評価され、両者の間には個人的な信頼関係も芽生えることとなった。

クリミア戦争の影とディアナ号の遭難

当時のロシアは、ヨーロッパにおいてオスマン帝国・イギリス・フランスなどとクリミア戦争(1853〜1856年)を戦っていた。極東水域においても敵国である英仏艦隊の脅威が迫っていたため、プチャーチンは長崎に留まり続けることができず、艦隊を避難させながら日本との交渉を断続的に進めなければならないという苦しい立場にあった。

翌1854年、プチャーチンは乗艦ディアナ号で伊豆の下田に入港し、幕府との本格的な交渉を再開した。しかしその最中、安政東海地震による大津波が発生し、ディアナ号は大破してしまう。その後、修理のために戸田(へだ)村(現在の静岡県沼津市)へ曳航される途中で嵐に遭い、ついに船は沈没してしまった。

日露和親条約の締結と北方国境の画定

乗るべき船を失い、母国が戦争中であるという絶望的な状況下においても、プチャーチンは幕府全権の筒井政憲や川路聖謨らと誠実な交渉を継続した。その結果、1855年(安政元年)初頭に長楽寺(下田)において日露和親条約(下田条約)が調印された。本条約では、日米和親条約と同様に下田・箱館・長崎の開港が定められただけでなく、最大の懸案であった日露間の国境画定が行われた点が極めて重要である。

条約により、千島列島においては択捉(えとろふ)島得撫(うるっぷ)島の間に国境線が引かれ、択捉島以南が日本領、得撫島以北がロシア領と確定した。一方、樺太(サハリン)については明確な国境を設けず、これまで通り「両国人の雑居の地」とされた。この時に画定された択捉島以南の四島が、現代における「北方領土」の法的根拠の原点となっている。

「ヘダ号」建造に見る日露交流の意義

ディアナ号を失ったプチャーチン一行が帰国するため、幕府は代わりの船の建造を許可した。伊豆の戸田村において、日本の船大工とロシアの水兵たちが協力し、西洋式のスクリューを備えた洋式帆船「ヘダ号」が建造された。この事業を通じて、日本側は図面を用いた近代的な西洋造船技術を実地で学ぶこととなり、幕末における海軍力強化の大きな足掛かりとなった。

また、遭難したロシア人への日本側の献身的な救護や、共同作業によるヘダ号の建造は、国境や立場の違いを越えた日露友好の象徴的な出来事として歴史に刻まれている。プチャーチンは帰国後も日本への感謝を忘れず、1858年には再び来日して日露修好通商条約を結ぶなど、初期の日露外交において平和的関係の構築に多大な貢献を果たした。

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最終更新:2026年6月17日 @ 23:49

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