京都守護職
【概説】
江戸時代末期の文久の改革において、尊王攘夷運動により悪化した京都の治安維持と朝廷の警衛を目的に新設された幕府の役職。会津藩主の松平容保が就任し、幕末の京都政局において幕府側の中心的な役割を担った。
設置の背景と文久の改革
1858年の日米修好通商条約調印や安政の大獄以降、京都には全国から尊王攘夷派の志士が集結し、「天誅」と称する暗殺が横行して極度の治安悪化を招いていた。従来、京都の警衛や朝廷との交渉は京都所司代や京都町奉行が担っていたが、事態はもはや旧来の機関で収拾できる状態ではなくなっていた。こうしたなか、1862年(文久2年)に薩摩藩の島津久光が主導した幕政改革である文久の改革において、京都の治安維持および朝廷と幕府の連携強化(公武合体)を図るため、京都所司代の上位に位置する新たな役職として新設されたのが京都守護職である。
松平容保の就任と治安維持活動
初代かつ唯一の京都守護職に任命されたのは、会津藩主の松平容保(まつだいらかたもり)であった。会津藩は藩祖・保科正之以来の「徳川将軍家への絶対随順」を定めた家訓を有していたが、家臣団は財政難や藩の存亡に関わるとして就任に猛反対した。しかし、政事総裁職の松平春嶽らによる再三の説得と、藩祖の遺訓への忠誠心から容保はこれを受諾した。容保は1000名を超える会津藩兵を率いて上洛し、京都所司代・京都町奉行・近畿一円の幕領を統括する強大な権限を与えられた。また、非正規部隊であった壬生浪士組を新選組として配下に置き、さらに幕臣からなる京都見廻組を組織して、過激派志士の取締りと治安回復に大きな成果を挙げた。
幕末政局の主導(一会桑政権)
京都守護職の役割は単なる警察権の行使にとどまらず、幕末の京都政局の中核を担うものであった。1863年(文久3年)の八月十八日の政変では、薩摩藩と結んで長州藩や三条実美ら急進的な尊王攘夷派の公卿を京都から追放した。翌1864年(元治元年)の禁門の変(蛤御門の変)では、武力上洛を図った長州藩兵を会津・薩摩などの諸藩兵とともに撃退し、幕府の権威回復に貢献した。この時期、将軍後見職(のち禁裏御守衛総督)の一橋慶喜、京都守護職の松平容保、そして京都所司代に就任した容保の実弟である桑名藩主・松平定敬の三者が連携し、いわゆる「一会桑(いっかいそう)政権」を形成して、朝廷を擁しながら政局を強力に主導していった。
役職の廃止と会津藩の悲劇的な運命
しかし、薩長同盟の成立などにより討幕の機運が高まると、京都守護職を中核とする一会桑政権は次第に孤立を深めていった。1867年(慶応3年)、第15代将軍・徳川慶喜による大政奉還が行われた直後、討幕派が主導した王政復古の大号令によって幕府組織は解体され、京都守護職も廃止された。長年にわたり尊王攘夷派を厳しく弾圧し、京都政局を幕府側で牽引し続けた松平容保と会津藩は、新政府の中心となった薩長陣営から激しい恨みを買うこととなった。これが翌年からの戊辰戦争において、会津藩が「朝敵」の筆頭として過酷な討伐(会津戦争)を受ける決定的な要因となったのである。