金印(漢委奴国王)

重要度
★★★

金印(漢委奴国王) (きんいん(かんのわのなのこくおう)

57年

【概説】
江戸時代の1784年に筑前国志賀島(現在の福岡県)で発見された、後漢の光武帝が倭の奴国王に与えたとされる「漢委奴国王」と刻まれた純金製の印章。中国の歴史書『後漢書』東夷伝の記述を裏付ける決定的な物証であり、日本列島の政治勢力が初めて中国の冊封体制に組み込まれたことを示す、弥生時代の極めて重要な遺物である。

志賀島での発見と亀井南冥の考証

金印は、江戸時代後期の1784年(天明4年)、筑前国粕屋郡志賀島(現在の福岡市東区)において、農作業中の甚兵衛という人物によって大石の下から偶然発見された。甚兵衛はこれを郡役所に届け出たのち、福岡藩主である黒田家に献上した。この不可思議な純金の遺物に対し、福岡藩の儒学者であった亀井南冥(かめいなんめい)は、いち早く中国の歴史書『後漢書』の記述と符合することを見抜き、『金印弁』を著してその歴史的価値を世に知らしめた。現在、金印は国宝に指定され、福岡市博物館に所蔵されている。

『後漢書』東夷伝が伝える朝貢の記録

金印の存在を文献上で裏付けているのが、中国の正史の一つである『後漢書』東夷伝である。同書には、「建武中元二年(西暦57年)、倭奴国、貢を奉じて朝賀す。(中略)光武賜うに印綬を以てす」と明確に記されている。すなわち、紀元1世紀半ばの日本列島に存在した「奴国(なこく)」の王が、後漢の初代皇帝である光武帝に使いを送って朝貢し、その返礼として印綬(印章とそれに付ける組紐)を与えられたという記録である。志賀島で発見された金印は、まさにこの時光武帝から授けられたものと考えられており、文献史学の記述と考古学の成果が見事に一致した稀有な例となっている。

印文の解釈と印章の規格(蛇鈕)

金印に刻まれた「漢委奴国王」の5文字については、古くからその読み方や解釈をめぐって論争が続いてきた。一般的には「漢の委(倭)の奴(な)の国王」と読み、後漢の属国である倭国、さらにその中に位置する奴国の王を意味するとされる(「委」は「倭」の略字)。一方で、江戸時代から「漢の委奴(いと)国王」、すなわち伊都国の王とする説や、委奴を「わの」と読む説なども存在した。

また、金印の寸法は一辺約2.3cmであり、これは当時の後漢の度量衡における「一寸」に相当する。上部のつまみ部分は、蛇がとぐろを巻いた蛇鈕(じゃちゅう)と呼ばれる形状をしている。漢の印制において、純金製で蛇鈕を持つ印章は、南方や東方の異民族の有力な王に対して与えられる規格であった。1956年に中国の雲南省で発見された「滇王之印(てんおうのいん)」も同様の純金・蛇鈕であり、このことは志賀島の金印が後漢の正式な工房で製作された真正の官印であることを強く裏付けている。

金印が示す東アジア国際関係と倭国の動向

奴国王が後漢に朝貢し金印を授かったことは、日本列島の首長が初めて中国の冊封体制(中国皇帝と君臣関係を結び、王としての地位を承認される国際秩序)に組み込まれたことを意味する。紀元前後の倭国(日本列島)は、100余りの小国が分立し、互いに争う状態にあった。現在の福岡平野を中心とする奴国は、先進的な稲作技術や青銅器・鉄器の生産を背景に有力な勢力を持っていたが、自らの政治的優位性をさらに確固たるものにするため、強大な後漢の「権威」を必要としたのである。

金印の獲得は、中国という強力な後ろ盾を得ることで周辺諸国に対する圧倒的な優位性を誇示し、国内の統合を進めようとした奴国王の高度な外交戦略の現れであった。その後、2世紀後半の「倭国大乱」や3世紀の邪馬台国・卑弥呼の登場(親魏倭王の金印紫綬授与)へと連なる、日本列島における国家形成の歩みを紐解く出発点として、金印は計り知れない歴史的意義を持っている。

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