卑弥呼

重要度
★★★

卑弥呼 (ひみこ)

?〜248年頃

【概説】
弥生時代終末期において、邪馬台国を中心とする倭の約30国の連合体を統治した女王。
「鬼道」と呼ばれる呪術を用いて国を治め、239年には中国の魏に遣使して「親魏倭王」の称号と金印紫綬などを授けられた。

倭国大乱と邪馬台国連合の成立

中国の史書である『三国志』魏書東夷伝倭人条(いわゆる魏志倭人伝)によると、2世紀後半の倭国(日本列島)では、長らく男王が治めていたが、諸国が対立して相争う倭国大乱と呼ばれる騒乱状態に陥っていた。この争いを収束させるため、倭の諸国は共同で一人の女性を王として擁立した。これが卑弥呼である。

卑弥呼が共立されたことで争いは一時的に収まり、邪馬台国を中心とする約30の小国からなる緩やかな連合国家が形成された。彼女の登場は、日本列島における政治統合が一段階進み、初期国家の形成へと向かう極めて重要な転換点であったといえる。

「鬼道」による祭政一致の統治構造

魏志倭人伝には、卑弥呼は「鬼道に事え、能く衆を惑わす」と記されている。「鬼道」の具体的な内容は諸説あるが、精霊や神霊と交信するシャーマニズム的な呪術・宗教的権威であったと考えられている。彼女は神の意志を伝える巫女としての絶大なカリスマ性を背景に、諸国の首長たちを精神的に束ねていた。

王となってからの卑弥呼は、奥深い宮室に閉じこもり、ごく少数の従者を除いて人前に姿を現すことはなかった。彼女の神託を外界に伝え、実際の国政を補佐していたのは彼女の「男弟」であった。このように、宗教的権威を持つ女性と、実務的・政治的権力を握る男性が分担して統治を行う形態は、古代日本においてしばしば見られるヒメヒコ制(二王制)の典型例とされている。

魏への遣使と東アジア国際情勢

卑弥呼の統治において最も特筆すべき外交的成果が、中国の王朝であるへの朝貢である。景初3年(239年)、卑弥呼は大夫の難升米らを魏の帯方郡(現在の朝鮮半島中西部)へ派遣し、時の皇帝・明帝に貢ぎ物を献上した。魏はこれを大いに喜び、卑弥呼に「親魏倭王」の称号と金印紫綬、さらに銅鏡100枚をはじめとする莫大な下賜品を与えた。

この遣使の背景には、当時の東アジアの激動が関係している。前年の238年、魏は遼東半島や朝鮮半島を支配していた公孫氏を滅ぼし、東方への影響力を急激に拡大していた。卑弥呼はいち早くこの国際情勢の変化を察知し、魏と直接結びつくことで、自らの倭国における王権を強固なものにしようと図ったのである。魏から与えられた大量の銅鏡(三角縁神獣鏡などとする説が有力)は、倭の諸国の首長たちに分配され、彼らを従属させるための強力な政治的威信財として機能した。

狗奴国との対立と卑弥呼の死

魏の強大な後ろ盾を得た卑弥呼であったが、倭国内のすべての国を完全に掌握していたわけではなかった。邪馬台国連合の南には、男王の卑弥弓呼(ひみここ)が治める狗奴国(くなこく)が存在し、邪馬台国と激しく対立していた。正始8年(247年)、卑弥呼は帯方郡に使いを送り、狗奴国との交戦を報告して支援を求めた。魏は詔書と黄幢(黄色い旗)を持たせた使者・張政を派遣し、卑弥呼を激励した。

しかし、この争いの最中の248年頃、卑弥呼は死去する。魏志倭人伝には「卑弥呼以て死す。大いに冢(墓)を作ること、径百余歩」とあり、彼女のために巨大な墳墓が築かれ、100余人の奴婢が殉死したことが記録されている。近年の考古学研究では、奈良県桜井市にある出現期の前方後円墳、箸墓古墳(はしはかこふん)を卑弥呼の墓とする説が有力視されており、邪馬台国畿内説を補強する重要な根拠となっている。

歴史的意義とその後

卑弥呼の死後、新たに男王が立てられたが諸国はこれに服さず、再び国中が混乱して殺し合いへと発展した。そのため、卑弥呼の宗女(一族の女性)である13歳の壱与(台与)を新たに女王として立てることで、ようやく内乱は収まった。この事実は、当時の邪馬台国連合の結合が、依然として強大な宗教的権威を持つ女性首長を必要としていたことを如実に示している。

卑弥呼は、確実な文字史料にその名が刻まれた日本史上最初の具体的な人物である。彼女の治世と巧みな外交戦略は、弥生時代終末期から古墳時代初頭にかけての日本列島が、どのようにして地域的な小国の分立状態から広域の政治連合へと発展していったかを解き明かす上で、現在も日本古代史最大のテーマであり続けている。

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