ラクスマン
【概説】
1792年、漂流民の大黒屋光太夫らを伴って北海道の根室に来航したロシアの軍人・使節。ロシア皇帝エカチェリーナ2世の命を受けて江戸幕府に通商を求めたが拒絶され、長崎への入港許可証である信牌を受け取って退去した。
来航の背景と大黒屋光太夫
18世紀後半、毛皮を求めて東方への進出を進めていたロシア帝国は、千島列島やカムチャツカ半島から次第に日本近海へと南下しつつあった。当時のロシア女帝エカチェリーナ2世は、極東における食糧補給地の確保や対日貿易の利益に着目していた。そのような折、アリューシャン列島に漂着し、ロシア内陸部へ送られていた伊勢国の船頭・大黒屋光太夫(だいこくやこうだゆう)らが保護された。ラクスマンの父であり博物学者のキリル・ラクスマンは、光太夫らの日本送還を名目に使節を派遣し、日本との通商を開くことを女帝に建白した。この進言が採用され、息子の陸軍中尉アダム・ラクスマンが遣日使節として任命されたのである。
根室への来航と松平定信の対応
1792年(寛政4年)、ラクスマンはエカチェリーナ号に乗船し、光太夫ら漂流民を伴って蝦夷地の根室に来航した。一行は根室で越冬した後、翌春に松前へ移動し、江戸幕府から派遣された目付らと会見した。当時の幕政を主導していた老中・松平定信は、漂流民の引き渡しは受けたものの、通商の要求に対しては「通信・通商は長崎に限る」という国法(いわゆる鎖国の祖法)を理由に断固として拒絶した。しかし、武力衝突を避けるための柔軟な外交措置として、長崎での交渉のみを許可する入港許可証である信牌(しんぱい)を交付し、彼らを穏便に退去させた。
歴史的意義と北方政策への影響
ラクスマンの来航は、近世日本の対外政策において極めて重要な転換点となった。それまで漠然とした噂に過ぎなかった「赤蝦夷(ロシア人)」による北からの脅威が、現実的な国防上の課題として幕府に突きつけられたからである。これを契機として幕府は、近藤重蔵や最上徳内らを派遣して千島・択捉島の探検を行わせるなど、北方防備の強化と蝦夷地の地誌調査に本格的に乗り出すこととなった。
また、ラクスマンが持ち帰った信牌は、のちの1804年に再びロシア使節レザノフが長崎に来航する際の根拠として使用された。ラクスマンの来航は、19世紀以降に激化する欧米列強による開国要求の、まさに歴史的な端緒であったといえる。