高野長英 (たかのちょうえい)
【概説】
江戸時代後期の蘭学医・啓蒙思想家。
モリソン号事件に対する幕府の強硬な対外政策を批判した『戊戌夢物語』を著したことで、蛮社の獄において処罰された。のちに牢屋敷から脱獄し、偽名を用いて全国を逃亡しながらも蘭学の研究と翻訳活動を続けた非業の知識人である。
シーボルト門下での研鑽と蘭学者としての台頭
陸奥国水沢藩の家臣の家に生まれた高野長英は、江戸で杉田伯元や吉田長淑に蘭学を学んだ。その後、長崎に赴いてシーボルトが主宰する鳴滝塾に入門し、オランダ語や西洋医学をはじめ、兵学・地理学など広範な西洋の学問を吸収した。長英の並外れた語学力は塾内でも高く評価され、シーボルトの著書作成のための資料翻訳なども担った。
江戸に戻った後は町医者として開業する傍ら、三河国田原藩家老の渡辺崋山や小関三英ら進歩的な知識人が集う尚歯会(しょうしかい)に参加した。彼らは西洋の最新の知識を持ち寄り、日本の海防のあり方や海外事情について活発に議論を交わしていた。
モリソン号事件と『戊戌夢物語』の執筆
天保8年(1837年)、日本人漂流民の送還と通商を求めて来航したアメリカ商船モリソン号に対し、幕府が異国船打払令に基づいて砲撃を加えるモリソン号事件が発生した。この事実を翌年に知った長英は、幕府の世界情勢に対する無知と強硬な鎖国政策に強い危機感を抱き、匿名で『戊戌夢物語』(ぼじゅつゆめものがたり)を執筆した。
同書は、夢の中における架空の人物同士の対話という形式をとりつつ、イギリス(当時、長英らはモリソン号をイギリス船と誤認していた)の国力の強大さや国際的な慣例を説き、無謀な打ち払いを論理的に批判して、漂流民の受け入れと穏便な対応を主張するものであった。
「蛮社の獄」と壮絶な逃亡生活
長英らの開明的な主張や、尚歯会における知識人たちの結びつきは、幕府の保守派の激しい反感を買うこととなった。天保10年(1839年)、目付の鳥居耀蔵らが主導した言論弾圧事件である蛮社の獄が起こり、長英は渡辺崋山らと共に捕縛された。厳しい審問の末、幕政批判の罪により長英は終身刑にあたる永牢(えいろう)の判決を受け、伝馬町牢屋敷に収監された。
しかし弘化元年(1844年)、牢屋敷の火災(長英が自ら放火して切り放ちを狙ったという説もある)に乗じて脱獄を果たす。その後は、硝酸などの薬品で自らの顔を焼いて人相を変え、「沢三伯」などの偽名を使い分けながら全国各地を転々とする過酷な逃亡生活を送った。その逃亡中であっても、宇和島藩主・伊達宗城に秘密裏に庇護されて兵法書や砲術書の翻訳を行うなど、蘭学者としての活動を決してやめることはなかった。
幕末期における歴史的意義
嘉永3年(1850年)、江戸の青山百人町に潜伏していたところを幕府の捕吏に踏み込まれ、長英は奮戦の末に自刃(あるいは撲殺されたともいわれる)し、凄絶な最期を遂げた。
彼の生涯は悲劇的な結末を迎えたが、その思想と残した著作は幕末の日本に多大な影響を与えた。単なる語学や医学の枠を超え、世界規模の視野から日本の危機的状況を直視し、命がけで国家のあり方を問うた長英の姿勢は、のちの幕末の開国や近代化を推進する大きな原動力となったのである。