徳川斉昭 (とくがわなりあき)
【概説】
江戸時代後期の水戸藩第9代藩主。藤田東湖や会沢正志斎らを登用して藩政改革を推進し、後期水戸学を大成させた人物。幕末期には幕府の海防参与として国政に深く関与し、尊王攘夷論の急先鋒として絶大な影響力を持った。
水戸藩主への就任と天保の藩政改革
徳川斉昭は1800(寛政12)年、第7代水戸藩主・徳川治紀の三男として生まれた。長兄である第8代藩主・斉脩が嗣子のないまま病に倒れると、藩内の門閥派と改革派の間で後継者争いが勃発した。最終的に改革派に推される形で、1829(文政12)年に第9代藩主に就任した。
藩主となった斉昭は、藤田東湖や会沢正志斎といった水戸学の俊才を側近として抜擢し、大規模な藩政改革(水戸藩の天保の改革)に着手した。藩校である弘道館を創設して文武両道を奨励し、『大日本史』の編纂事業を強力に推進することで、尊王敬幕を旨とする後期水戸学を大成させた。さらに、農村復興や軍制改革、大砲の鋳造など、富国強兵を目指す急進的な政策を次々と実行に移した。
海防問題への危機感と国政への関与
斉昭の政治的視野は水戸藩内にとどまらず、日本の国防全体に向けられていた。当時、近海に出没する異国船の脅威や、清国がイギリスに敗北したアヘン戦争(1840年)の情報を得て、強烈な危機感を抱いていた。彼は幕府に対してたびたび海防体制の強化を建白したが、その急進的な改革姿勢や藩内での仏教弾圧(廃仏毀釈)などが幕府の警戒を招き、1844(弘化元)年に隠居・謹慎を命じられてしまった。
しかし、1853(嘉永6)年のペリー来航によって未曾有の国難が訪れると、事態は一変する。時の老中首座・阿部正弘は挙国一致体制を構築するため、斉昭の謹慎を解き、幕府の海防参与に任命した。斉昭は強硬な攘夷論を主張し、品川沖の台場(砲台)建設や江戸湾警備の強化を指導するなど、幕末の外交・国防政策において強大な発言力を持つようになった。
将軍継嗣問題と一橋派の形成
ペリー来航以降の激動の中、第13代将軍・徳川家定が病弱で嗣子がなかったため、次期将軍を巡る将軍継嗣問題が浮上した。斉昭は、阿部正弘や薩摩藩主・島津斉彬、福井藩主・松平慶永ら有力大名と結び、英明の誉れ高かった自身の実子・一橋慶喜(のちの第15代将軍・徳川慶喜)を次期将軍に擁立しようとする一橋派を形成した。
これに対し、譜代大名を中心とする保守派は、血統を重んじて紀伊藩主の徳川慶福(のちの家茂)を推す南紀派を形成した。この対立は、単なる跡継ぎ争いにとどまらず、朝廷を重んじて国難にあたるか、幕府専制を維持するかという政治路線、さらには開国か攘夷かという外交路線を巡る対立とも複雑に絡み合い、幕政を二分する激しい政治闘争へと発展していった。
安政の大獄と失脚
1858(安政5)年、南紀派の中心人物である彦根藩主・井伊直弼が大老に就任すると、権力闘争の決着がつけられる。井伊は将軍継嗣を徳川慶福(家茂)に決定し、さらに朝廷の勅許を得ないまま日米修好通商条約の調印を強行した。これに激怒した斉昭は、尾張藩主・徳川慶恕や一橋慶喜らと共に江戸城へ不時登城(規定の日時以外の登城)し、井伊を激しく詰問した。しかし、逆に不法登城の罪に問われ、蟄居処分を受けてしまう。
その後、井伊直弼は一橋派や尊王攘夷派に対する大弾圧である安政の大獄を断行し、斉昭は水戸での永蟄居を命じられ、政治生命を完全に絶たれた。1860(万延元)年、桜田門外の変で井伊直弼が水戸藩脱藩浪士らによって暗殺された数ヶ月後、斉昭は蟄居先の水戸で失意のうちに病死した。しかし、彼の掲げた過激な尊王攘夷思想は、その後の全国の志士たちに多大な影響を与え、倒幕・明治維新へと向かう歴史の原動力となっていった。