大久保利通 (おおくぼとしみち)
【概説】
幕末から明治時代初期にかけて活躍した薩摩藩出身の武士、政治家。西郷隆盛や木戸孝允とともに「維新の三傑」と称され、倒幕運動を主導して明治維新を成し遂げた。明治新政府においては初代内務卿として実権を握り、廃藩置県や地租改正、殖産興業などの近代化政策を強権的に推し進めて中央集権体制を確立したが、不平士族の反発を招き暗殺された。
薩摩藩士としての台頭と倒幕への道
天保元年(1830年)、薩摩藩の下級藩士の家に生まれた大久保利通は、藩校である造士館で学び、幼馴染であった西郷隆盛らとともに「精忠組」と呼ばれる若手改革派のグループを形成した。当初は不遇の時代を過ごしたが、島津斉彬の死後、実権を握った島津久光に接近して側近として頭角を現した。
大久保は久光を擁して京都へ上り、朝廷と幕府の連携を図る公武合体運動を推進した。しかし、生麦事件を契機とした薩英戦争(1863年)を経験し、西洋列強の圧倒的な軍事力をまざまざと見せつけられたことで、幕府を中心とした旧体制の限界を悟り、武力倒幕へと大きく方針を転換することになる。
慶応2年(1866年)、坂本龍馬らの仲介により、かつての政敵であった長州藩の木戸孝允らと薩長同盟を締結。朝廷内の岩倉具視ら倒幕派の公家とも緊密に連携し、慶応3年(1867年)には王政復古の大号令を画策して徳川幕府を事実上崩壊させ、その後の戊辰戦争を主導して明治新政府の樹立を決定的なものとした。
明治新政府の樹立と中央集権化への尽力
明治新政府が発足すると、大久保は参与や参議といった要職を歴任した。旧弊を打破し、列強に対抗しうる近代国家を建設するためには、強力な中央集権体制が不可欠であると痛感していた大久保は、木戸孝允や西郷隆盛らと協力し、1869年の版籍奉還、そして1871年の廃藩置県という歴史的大事業を断行した。何百年と続いた封建領主制を流血なしに解体したこの政策は、大久保の冷徹な政治力と決断力なくしては成し得ないものであった。
岩倉使節団と明治六年政変
1871年、大久保は全権副使として岩倉使節団に参加し、欧米諸国を視察した。とくにプロイセン(ドイツ)の宰相ビスマルクから大きな影響を受け、後進国が列強に伍するためには、国家主導による上からの近代化と「富国強兵」が急務であることを確信した。
1873年に帰国した大久保は、留守政府を預かっていた西郷隆盛や板垣退助らが主張する征韓論(武力による朝鮮開国論)に激しく反対した。内治優先と国力充実を説く大久保ら帰国組は、巧みな政治工作によって西郷らを下野に追い込んだ(明治六年政変)。これにより、大久保は政府の最高権力者としての地位を確立することとなった。
内務省の創設と殖産興業の推進
政変後の1873年、大久保は国家の警察・地方行政・勧農などを一手に担う強大な官庁である内務省を創設し、自ら初代内務卿に就任した。彼のもとに権力が集中したこの政治体制は「有司専制(官僚独裁)」と呼ばれた。
大久保は、近代国家の経済基盤を確立するため、国家主導の産業育成政策である殖産興業を強力に推し進めた。富岡製糸場に代表される官営模範工場の設立、鉄道や電信網などのインフラ整備、西洋農法の導入など、多岐にわたる近代化施策を実行した。また、国家財政を安定させるための地租改正を主導したのも大久保を中心とする官僚機構であった。
不平士族の反乱と紀尾井坂の変
しかし、四民平等や秩禄処分、廃刀令といった急進的な近代化政策は、かつての特権を次々と奪われた士族(旧武士階級)の激しい憎悪を招いた。佐賀の乱をはじめとする士族の反乱が相次ぐなか、1877年にはついに最大の士族反乱である西南戦争が勃発する。
反乱軍の盟主は、大久保の幼馴染であり、かつての最大の盟友であった西郷隆盛であった。大久保は私情を捨てて国家の指導者として徹し、政府軍を指揮してこれを徹底的に鎮圧し、西郷を死に追いやった。これにより国内の武力反乱は終息したが、大久保への個人的な恨みは頂点に達していた。
西南戦争終結直後の1878年(明治11年)5月14日、大久保は馬車で出仕する途中、東京の紀尾井坂付近において、石川県士族の島田一郎ら6名の不平士族によって暗殺された(紀尾井坂の変)。享年49であった。
大久保利通の歴史的評価
大久保利通は、その寡黙で感情を表に出さない性格や、目的のためには手段を選ばない政治手法から、同時代の人々からは「冷酷無情な独裁者」として恐れられ、憎まれることも多かった。しかし、彼の政治行動の根本には常に「国家の独立と近代化」という確固たるビジョンが存在していた。
私生活では極めて清廉潔白であり、国の公共事業や殖産興業のために自身の私財を惜しみなく投じていた。暗殺された際、権力者であったにもかかわらず彼の財産はほとんどなく、むしろ多額の借金が残されていたという事実がそれを物語っている。大久保が築き上げた官僚機構と内政基盤は、のちの伊藤博文らに引き継がれ、日本がアジアで唯一の独立した近代憲法国家へと飛躍する最大の原動力となった。今日において彼は、卓越したリアリズムと強い責任感を持った近代日本最高の政治家の一人として高く評価されている。