保科正之

4代家綱を大政参与として補佐し、文治政治の推進や玉川上水の開削に貢献した会津藩主は誰か。
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★★★

保科正之 (ほしなまさゆき)

1611〜1672

【概説】
江戸時代前期の大名で、江戸幕府第2代将軍・徳川秀忠の四男であり、第3代将軍・家光の異母弟。幼少の第4代将軍・徳川家綱を大政参与として補佐し、幕府の基本方針を武断政治から文治政治へと大きく転換させる上で中心的な役割を果たした。

将軍の落胤という数奇な生い立ち

保科正之は、第2代将軍・徳川秀忠の四男として生まれたが、その生い立ちは平坦なものではなかった。生母の身分が低かったことに加え、秀忠が正室であるお江与の方(崇源院)を極度に恐れていたため、正之の存在は長らく公にされず、密かに育てられた。その後、信濃国高遠藩主・保科正光の養子として迎えられ、保科家の家督を継ぐこととなった。

しかし、秀忠の死後、第3代将軍・徳川家光は異母弟である正之の存在を知ると、その誠実で控えめな人柄を深く愛した。家光の強力な引き立てにより、正之は高遠藩3万石から出羽国山形藩20万石、そして陸奥国会津藩23万石の藩主へと異例の出世を遂げた。家光は正之に徳川一門としての「松平」姓と三つ葉葵の紋の使用を許したが、正之は養育してくれた保科家への恩義を重んじ、生涯「保科」姓を名乗り続けた(後に第3代藩主・正容の代になって松平姓と葵紋を使用するようになる)。

大政参与としての幕政主導と文治政治の推進

1651年(慶安4年)、家光は臨終の床に正之を呼び寄せ、「宗家を頼み置く」との遺言を託した。家光の死後、わずか11歳で第4代将軍に就任した徳川家綱を補佐するため、正之は大政参与(のちの大老に相当する役職)に就任し、幕政を実質的に主導した。

正之が直面したのは、武断政治の弊害によって生み出された大量の牢人(浪人)問題であった。家光の死の直後に起きた由井正雪の乱(慶安の変)を契機に、正之はこれまでの強硬な取り潰し策を改め、末期養子の禁の緩和を実施して大名の改易を減らした。さらに、主君の死に際して家臣が後を追う殉死の禁止を主導するなど、武力で押さえつける「武断政治」から、儒教的な道徳や法律によって国を治める「文治政治」への大転換を実現させた。

明暦の大火と都市インフラの整備

幕政における正之のもう一つの大きな功績は、江戸の都市基盤の整備である。江戸の人口増加に伴う深刻な水不足を解消するため、1653年(承応2年)に玉川上水の開削を主導し、江戸市民の生活用水を確保した。

また、1657年(明暦3年)に発生し、江戸城の天守閣をも焼失させた明暦の大火の際には、迅速な救済措置と復興策を打ち出した。この時、正之は「天守閣はもはや時代遅れであり、城下町の復興と民衆の救済に資金を充てるべきだ」と主張し、江戸城天守閣の再建を見送らせた。この決断は、当時の幕府が民生を重んじていたことを示す象徴的な出来事として高く評価されている。

「会津家訓十五箇条」と幕末への影響

正之は会津藩の統治においても名君として知られた。飢饉に備えて米を蓄える社倉法(しゃそうほう)を整備し、90歳以上の老人には身分を問わず米を支給するなど、当時としては極めて先進的な撫民(ぶみん)政策を行った。また、朱子学者の山崎闇斎らを招いて学問を奨励し、自らも深く儒学や神道を学んだ。

1668年(寛文8年)、正之は会津藩の基本方針として「会津家訓十五箇条(あいづかきんじゅうごかじょう)」を制定した。その第一条には「会津藩たる者は将軍家を守護すべきであり、もし藩主が裏切るようなことがあれば、家臣はこれに従ってはならない」という、徳川宗家への絶対的な忠誠が記されていた。この家訓は代々の会津藩主に深く刻み込まれ、幕末において第9代藩主・松平容保が京都守護職を引き受け、最後まで佐幕派として戦い抜く(戊辰戦争・会津戦争)最大の精神的支柱となったのである。

保科正之の生涯 名君の碑 (文春文庫 な 29-5)

会津藩主として幕政を支えた知られざる名君の波乱に満ちた生涯を、史実に忠実に描き出した歴史ファン必読の伝記。

保科正之: 徳川将軍家を支えた名君 (PHP文庫 み 20-1)

徳川家の守護神として江戸幕府の基礎を築き上げた政治手腕と、民を慈しんだ名君の人間的魅力を解き明かす一冊。

最終更新:2026年6月17日 @ 23:49

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