竹本義太夫

大坂で竹本座を創設し、豪快で表現力豊かな新しい浄瑠璃(義太夫節)を創始した浄瑠璃の語り手は誰か。
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重要度
★★★

竹本義太夫 (たけもとぎだゆう)

1651年 – 1714年

【概説】
江戸時代前期から中期にかけて活躍した大坂の人形浄瑠璃太夫(語り手)。力強く豪放でありながら細やかな感情表現に富む「義太夫節」を創始した。劇作家の近松門左衛門と提携して数々の名作を世に送り出し、人形浄瑠璃を元禄文化を代表する芸術へと大成させた。

義太夫節の創始と竹本座の開場

竹本義太夫は、摂津国東成郡天王寺村(現在の大阪市天王寺区)の農家の出身とされる。若くして浄瑠璃を志し、清水理兵衛や井上播磨掾(いのうえはりまのじょう)といった当時の名人に師事して修行を積んだ。当時の浄瑠璃界には多数の流派が存在していたが、義太夫はそれらの長所を吸収・統合し、三味線の音色に合わせた独自の語り口を編み出した。

彼の語りは、単に筋書きを追うだけでなく、武将の勇壮さから市井の人々の悲哀まで、登場人物の心情(情理)を豊かに描写する点に最大の特徴があった。1684年(貞享元年)、義太夫は上方最大の繁華街である大坂の道頓堀に竹本座(たけもとざ)を開場し、独立を果たした。この彼の豪放かつ繊細な語り口は、のちに義太夫節(ぎだゆうぶし)と呼ばれ、一世を風靡することになる。

近松門左衛門との提携

竹本義太夫の成功を語る上で欠かせないのが、当代随一の劇作家・近松門左衛門(ちかまつもんざえもん)との運命的な出会いである。竹本座開場の翌1685年(貞享2年)、近松が義太夫のために書き下ろした時代物『出世景清(しゅっせかげきよ)』が大ヒットを記録した。近松の文学性の高い台本と義太夫の卓越した表現力が結びついたこの作品を境に、これ以前の浄瑠璃は「古浄瑠璃(こじょうるり)」と呼ばれるようになり、新しい時代の浄瑠璃が確立された。

さらに1703年(元禄16年)、大坂で実際に起きた心中事件をいち早く劇化した『曽根崎心中(そねざきしんじゅう)』を竹本座で上演した。それまでの歴史上の英雄を扱った時代物に対し、同時代の町人の愛と義理を描いたこの作品は「世話物(せわもの)」と呼ばれる新ジャンルを開拓し、空前の大ブームを巻き起こした。義太夫の語り、近松の台本に加え、三味線の竹澤権右衛門、人形遣いの辰松八郎兵衛ら一流の職人たちが集結したことで、人形浄瑠璃は極めて高度な総合芸術へと昇華したのである。

歴史的意義と後世への影響

竹本義太夫と近松門左衛門の活躍は、17世紀末から18世紀初頭にかけての元禄文化(げんろくぶんか)の成熟を象徴している。経済力をつけた上方(大坂・京都)の町人たちが文化の有力な担い手となり、彼らの美意識や生活感情がダイレクトに反映された芸術が求められていた時代背景が、義太夫節の大流行を後押しした。

義太夫の死後も、彼が創設した義太夫節は浄瑠璃の標準的スタイルとして定着し、後世においては「浄瑠璃といえば義太夫節」を指すほど絶対的な地位を築いた。また、彼の門弟であった豊竹若太夫(とよたけわかたゆう)が独立して豊竹座を立ち上げると、竹本座と豊竹座が競い合う「竹豊時代(ちくほうじだい)」が到来し、人形浄瑠璃はさらなる黄金時代を迎えることとなった。

近松浄瑠璃の成立

人形浄瑠璃の黄金時代を築いた近松門左衛門の作品世界と、その背景にある創作の源流を鋭く解き明かす一冊。

日本古典芸能史

古代から現代まで続く芸能の変遷を体系的に辿り、日本人の心に刻まれた美意識の深層へと迫る重厚な書。

最終更新:2026年6月17日 @ 23:49

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