御用取次 (ごようとりつぎ)
【概説】
江戸幕府8代将軍の徳川吉宗が、将軍と老中の間における命令や意見の伝達を行うために新設した側近の役職。従来の側用人政治による弊害を是正し、将軍主導の緊密な政治意思決定ルートを確立することを目指した制度。
側用人の廃止と「御用取次」新設の背景
5代将軍・徳川綱吉や6代家宣、7代家継の時代には、将軍の側近である側用人(柳沢吉保や間部詮房など)が、将軍と老中の仲介役として政治の実権を握っていた。しかし、この側用人政治は譜代大名や老中たちの反発を招き、幕政の構造的な不透明さや腐敗の原因ともみなされていた。
1716年に紀伊徳川家から8代将軍に就任した徳川吉宗は、従来の側用人政治からの決別を図るため、間部詮房を更迭して側用人制度を事実上廃止した。しかし、将軍がすべての政務を老中と直接やり取りすることは物理的に不可能であった。そこで吉宗は、将軍の耳目として機能しつつも、側用人のように独自の政治権力を持たない新たな連絡調整役として「御用取次」を創設した。
側近政治の抑制と享保の改革における役割
御用取次には、吉宗が紀州藩主時代から抱えていた忠実な近臣である加納久通や有馬氏倫らが任命された。彼らは将軍の意思を正確に老中へ伝え、また老中からの上申書(稟議書)を将軍へと取り次ぐ実務に専念した。側用人と異なり、御用取次は自身の政治的裁量を極力排除され、あくまで「伝言役」に徹することが求められた点が特徴である。
この制度により、吉宗は老中を中心とする正式な幕府行政機構(表の政治)を尊重しつつ、自身のリーダーシップを確実に浸透させる体制を整え、享保の改革を強力に推し進めた。しかし後年、将軍の代替わりとともに御用取次の性格は再び変化し、9代家重や10代家治の時代には、御用取次から側用人へと昇格した田沼意次が再び権勢を掌握するなど、側近政治の再燃と抑制の歴史は幕末まで繰り返されることとなる。