後水尾天皇 (ごみずのおてんのう)
【概説】
江戸時代初期の第108代天皇。徳川幕府による強力な朝廷統制に対して強く反発し、紫衣事件などを経て幕府の事前の同意なしに娘の明正天皇へ譲位した。退位後は長きにわたり院政を敷くとともに、寛永文化の中心として学問や芸術を庇護した。
徳川幕府の成立と朝廷統制
後水尾天皇は、第107代後陽成天皇の第3皇子として生まれ、1611年(慶長16年)に即位した。この時期は徳川家康が江戸幕府を開き、豊臣氏を滅亡させて武家政権の基礎を盤石に固めつつある時代であった。幕府は朝廷に対する統制を次第に強め、1615年(元和元年)には大御所・家康と将軍・秀忠の名で禁中並公家諸法度を公布した。これにより天皇の第一の責務は「学問」と規定され、官位の叙任権をはじめとする朝廷の伝統的な権限に幕府が介入する法的根拠が築かれた。
さらに幕府は、将軍家と天皇家を結びつけて政治的優位を確固たるものにするため、将軍秀忠の娘である徳川和子(まさこ/のちの東福門院)の入内を強要した。天皇や朝廷はこれに強く反発したものの、最終的に幕府の圧力に屈する形で、1620年(元和6年)に和子を中宮として迎え入れることとなった。
紫衣事件と抗議の譲位
幕府の厳しい統制下で、朝廷の権威と幕府の法が正面から衝突した決定的な出来事が紫衣事件(しえじけん)である。朝廷は古くから、高僧に対して最高位の象徴である紫衣(紫色の法衣)の着用を認める勅許を与えており、その際にもたらされる冥加金は朝廷の重要な収入源となっていた。しかし1627年(寛永4年)、幕府は「禁中並公家諸法度」の手続きに違反しているとして、後水尾天皇が与えた数十件もの紫衣着用の勅許を無効とし、紫衣を取り上げる強硬措置に出た。これに激しく抗議した大徳寺の沢庵宗彭らは、幕府によって流罪に処された。
さらに1629年(寛永6年)、第3代将軍徳川家光の乳母であるお福(のちの春日局)が、無位無官の平民であるにもかかわらず朝廷に参内するという前代未聞の事態が起きた。これら幕府の度重なる横暴と朝廷への権威失墜行為に激怒した後水尾天皇は、同年、幕府への事前の通告や同意を一切得ることなく、突然譲位を決行した。皇位は和子との間に生まれた興子内親王に譲られ、ここに奈良時代の称徳天皇以来、約850年ぶりとなる女帝・明正天皇が誕生した。
寛永文化の庇護と晩年
電撃的な譲位によって幕府に強烈な意地を示した後水尾上皇(後に出家して法皇)であったが、退位後も約半世紀にわたって院政を敷き、朝廷内の実権を握り続けた。政治的な表舞台から身を引いた後は、学問や芸術に深く傾倒し、17世紀前半に花開いた寛永文化の最大のパトロン(庇護者)として大きな足跡を残した。
古典文学の研究や和歌、連歌の振興に努めたほか、茶道や立花(池坊専好を重用)など幅広い文化を愛好した。特に、自ら設計の指示を出して京都の洛北に造営した修学院離宮は、壮大な借景手法を用いた日本庭園の最高傑作の一つとして知られ、後水尾上皇の卓越した美意識を今日に伝えている。幕府側も、譲位の事後処理が済んだ後は朝廷との関係修復を図って上皇の経済的基盤を手厚く保護したため、結果として江戸時代における公家文化の再生と洗練に大きく寄与することとなった。