紅毛人 (こうもうじん)
【概説】
近世の日本において、オランダ人やイギリス人など北ヨーロッパ系のプロテスタント(新教)国の人々を指した呼称。従来のポルトガル人やスペイン人などを指す「南蛮人」と対比して用いられた。彼らの存在は、江戸幕府のキリスト教禁教政策やいわゆる「鎖国」体制の形成、そして後の「蘭学」の発達に決定的な影響を与えた。
「南蛮人」との対比と呼称の由来
16世紀半ば以降、日本に相次いで来航したポルトガル人やスペイン人は、中華思想に由来する「南蛮(なんばん)」という言葉から南蛮人と呼ばれた。これに対し、17世紀初頭から日本に接近し始めたオランダ人やイギリス人は、その身体的特徴(赤茶色の髪や青い眼)から紅毛人(または紅毛)と呼び区別された。
この区分は単なる外見の違いにとどまらず、宗教的・政治的な対立背景を含んでいた。南蛮人がカトリック教徒であり、熱心なキリスト教布教を伴う交易(南蛮貿易)を展開したのに対し、紅毛人は宗教改革を経たプロテスタント教徒であり、布教よりも商業的実利を最優先する姿勢をとった。この違いが、のちの江戸幕府の対外政策を大きく左右することとなる。
リーフデ号の漂着と江戸幕府の接近
紅毛人と日本との本格的な接触は、1600年(慶長5年)のオランダ船リーフデ号の豊後国(大分県)への漂着から始まる。関ヶ原の戦いを目前に控えていた徳川家康は、同船の航海士であったイギリス人のウィリアム・アダムズ(三浦按針)や、オランダ人のヤン・ヨーステン(耶揚子)らを外交・貿易顧問として重用した。
家康は、スペインやポルトガルが布教を通じて植民地領有を狙っているのではないかと警戒していたため、布教を目的としない紅毛人の存在を歓迎した。1609年にはオランダが、1613年にはイギリスが、それぞれ肥前国の平戸に商館を設立して本格的な対日貿易を開始した。これにより、従来のポルトガルによる貿易独占体制は崩壊へと向かった。
鎖国体制下におけるオランダの独占と歴史的意義
その後、イギリスはオランダとの競争に敗れて1623年に日本から自主撤退したため、日本の「紅毛人」は事実上オランダ人を指す言葉となった。江戸幕府は禁教政策を進める中で、キリスト教の布教を行わないオランダを唯一のヨーロッパ交易国として容認し、1641年にはオランダ商館を長崎の出島へと移転させた。
いわゆる「鎖国」体制が完成して以降も、幕府は紅毛人(オランダ人)を通じて海外情報の収集を継続し、オランダ商館長が提出する「オランダ風説書」は幕府にとって世界情勢を知る極めて重要な情報源となった。また、紅毛人がもたらした西洋の医学や科学技術は、江戸時代中期以降の「蘭学」の興隆へとつながり、日本の近代化の知的基盤を形成することとなった。