足利義澄 (あしかがよしずみ)
【概説】
室町幕府の第11代征夷大将軍。管領である細川政元が起こしたクーデター「明応の政変」によって、前将軍の足利義材(のちの義稙)が追放された後に擁立された将軍である。その生涯は細川氏の政権闘争や将軍家の分裂に翻弄され続け、戦国時代の幕開けを象徴する悲劇的な指導者であった。
明応の政変と将軍擁立の背景
足利義澄は、堀越公方であった足利政知の子として生まれた。のちに第8代将軍・足利義政の猶子となり、京都の天龍寺香厳院に入って僧籍に身を置いていた。しかし、1493年(明応2年)、室町幕府の権力構造を根底から覆す大事件が起こる。細川京兆家の当主で管領の細川政元が、当時の第10代将軍・足利義材を廃位・追放した明応の政変である。このクーデターにより、政元に担ぎ上げられる形で将軍へ就任したのが、当時13歳であった義澄(当時の名は義遐、のちに義高・義澄と改名)であった。
この明応の政変は、将軍の廃立が臣下である有力守護大名(管領)の手によって強行されたという点で、日本の歴史における「下剋上」の風潮を決定づけ、本格的な戦国時代へ突入する契機となった。義澄は、事実上、細川政元の傀儡として擁立された将軍であったが、成長するにつれて自立的な将軍親政を志向し、守護たちへの命令系統を整えようと模索した。
分裂する幕府と「ふたりの将軍」
義澄の将軍としての治世は、常に自らの正当性を脅かす前将軍・足利義材(義稙)との対立に苛まれた。京都を追われた義材は、越中や周防など地方の有力大名を頼って亡命生活を送りながら、将軍職への復帰を虎視眈々と狙っていた。これにより、室町幕府は京都の義澄派(細川政元ら)と、地方の義材派という「ふたりの将軍」を抱える二重権力状態に陥り、日本全国の守護や国人領主たちがどちらの陣営に付くかをめぐって分裂・抗争を繰り返した。
また、義澄を支えていた細川政元とも、必ずしも良好な関係ばかりではなかった。政元は将軍である義澄をも脅かす独裁権力を振るったが、1507年(永正4年)、細川家の家督争いに巻き込まれて暗殺される(永正の錯乱)。これにより義澄は最大の政治的後ろ盾を失い、細川家自体も内紛による深刻な混乱期へと突入した。
権力闘争の挫折と残された血統
細川政元の死によって中央政界の均衡が崩れると、1508年(永正5年)、周防の戦国大名である大内義興が前将軍・足利義材を奉じて大軍で上洛を開始した。これに対抗できなかった義澄は、京都から近江国(現在の滋賀県)へと亡命を余儀なくされた。京都を制圧した義材は将軍職に復帰し、義澄は将軍の地位を追われることとなった。
義澄は近江の六角氏などの支援を得て、将軍職を奪還すべく幾度も京都への反攻を試みたが、志半ばの1511年(永正8年)、近江の水茎岡山城にて31歳で病没した。その直後に義澄派と義材派の間で激突した船岡山合戦では義澄派が敗北し、彼の復権は果たされなかった。しかし、義澄の遺志を継いだ血統(子の足利義晴・足利義維)は、のちに第12代・第13代(義輝)・第15代(義昭)の将軍へと引き継がれ、室町幕府の終焉までその直系が将軍家を担い続けることとなった。