足利成氏 (あしかがしげうじ)
【概説】
室町時代中期の武将で、第5代鎌倉公方および初代古河公方。父である足利持氏が永享の乱で滅ぼされた後に公方家を再興したが、関東管領の上杉氏や室町幕府と激しく対立した。関東地方における戦国時代の端緒となった「享徳の乱」を引き起こした主導者である。
鎌倉公方の再興と上杉氏との不和
1439年、室町幕府の第6代将軍足利義教の討伐を受けて鎌倉公方足利持氏が自害し(永享の乱)、鎌倉府は一時滅亡状態となった。持氏の遺児であった春王丸・安王丸もその後の結城合戦で敗死したが、生き延びた末子の永寿王丸(のちの足利成氏)は、関東の有力国人や幕府内の宥和派の意向により、1449年に第5代鎌倉公方として復帰を遂げた。これは、関東の混乱を収めるために鎌倉公方の権威が必要とされたためである。
しかし、父を幕府と上杉氏に殺された成氏と、その父を追い詰めた当事者である関東管領山内上杉家(上杉憲忠)との間の不信感は解消されなかった。成氏は、持氏以来の忠臣であった東国の国人衆(野田氏、簗田氏、小山氏、結城氏など)を重用し、山内上杉家に対抗する独自の勢力を形成し、両者の対立は急速に深まっていった。
享徳の乱の勃発と古河公方の誕生
1454年、成氏は対立関係にあった関東管領上杉憲忠を鎌倉の自邸に誘い出して暗殺した。この衝撃的なテロ行為を契機として、関東地方を約30年にわたって二分する大乱である享徳の乱が勃発する。憲忠の死に激怒した上杉一族は、室町幕府と結んで成氏討伐の兵を挙げた。幕府軍の圧迫を受けた成氏は、1455年に拠点を鎌倉から下総国の古河(現在の茨城県古河市)へと移し、以後は古河公方を自称するようになる。
幕府は成氏に対抗するため、将軍足利義政の異母兄である足利政知を新たな鎌倉公方として東下させたが、成氏方の抵抗により政知は鎌倉に入ることができず、伊豆の堀越に留まって堀越公方となった。これにより、利根川水系を境に、東側の古河公方(成氏)を支持する反上杉の国人勢力と、西側の堀越公方および山内・扇谷両上杉氏を擁する幕府方勢力が激しく対峙する「東西分裂」の構図が定着した。
都鄙合体と関東戦国時代の幕開け
享徳の乱は、京都で起きた応仁の乱(1467年~1477年)よりも10年以上早く発生し、応仁の乱が終結した後も続いた。長年にわたる戦乱で関東全域が荒廃すると、双方の陣営に疲弊が生じ、1483年に室町幕府と成氏の間で和議が成立した。これは都鄙合体(とひがったい)と呼ばれる。
この合体によって、成氏は長年の「朝敵」の指定を解除され、幕府から正式に古河公方としての地位を公認された。しかし、30年近くにおよぶ戦乱の結果、関東における幕府や管領の権威は完全に失墜していた。さらに、上杉氏の内部対立(山内上杉家と扇谷上杉家の抗争)や新興勢力である後北条氏の台頭を誘発することとなり、足利成氏の決断と行動は、関東を実力本位の「戦国時代」へと引きずり込む最大の契機となった。