扇谷上杉氏 (おうぎがやつうえすぎし)
【概説】
室町時代から戦国時代にかけて関東地方に割拠した上杉氏の分家。家宰である太田道灌の活躍によって宗家の山内上杉氏を凌ぐ勢力を築いたが、のちに新興勢力である後北条氏の圧迫を受け、河越夜戦において滅亡した。
扇谷上杉氏の出自と太田道灌の活躍
扇谷上杉氏は、鎌倉幕府および室町幕府の重鎮として関東に君臨した藤原勧修寺流上杉氏の分家の一つである。鎌倉の扇谷(現在の神奈川県鎌倉市扇ガ谷)に邸宅を構えたことからその名で呼ばれるようになった。当初は関東管領を世襲する宗家・山内上杉氏を支える補佐的な立場にとどまっていたが、室町時代中期の享徳の乱において、名臣として知られる家宰(執事)の太田道灌(資長)を擁したことで、その政治的・軍事的地位を急速に高めていく。
太田道灌は武蔵国に江戸城や岩槻城を築城して防備を固め、優れた軍事指揮と卓越した政治交渉によって敵対勢力を圧倒した。これにより扇谷上杉氏は宗家に匹敵、あるいはそれを凌駕する実力を獲得するに至る。しかし、その台頭に危機感を抱いた当主・上杉定正は、1486年に道灌を暗殺してしまう。この最大の功臣の謀殺は家臣団の離反と動揺を招き、扇谷上杉氏にとって自滅への第一歩となった。
長享の乱と「後北条氏」の関東進出
太田道灌の死後、扇谷上杉氏と山内上杉氏の対立は決定的となり、関東の主導権を巡る全面的な内紛である長享の乱(1487年〜1505年)が勃発した。約20年間にわたり関東全域を巻き込んだこの泥沼の戦いは、両上杉氏の勢力を著しく疲弊させ、関東における室町幕府秩序の崩壊(戦国時代の本格化)を加速させることとなった。
この旧勢力の共倒れという好機を捉えて台頭したのが、伊豆国から相模国へと進出してきた北条早雲(伊勢宗瑞)を祖とする後北条氏である。急速に勢力を拡大する後北条氏は、扇谷上杉氏の政治的・経済的拠点であった鎌倉や、武蔵国支配の要衝である河越城(埼玉県川越市)を次々と奪取した。本拠地を追われた扇谷上杉氏は、存亡の危機に立たされることとなる。
河越夜戦と滅亡がもたらした歴史的影響
追い詰められた扇谷上杉氏の当主・上杉朝定は、宿敵であった山内上杉氏(上杉憲政)および古河公方の足利晴氏と手を結び、後北条氏を打倒するための大連合軍を結成した。1545年、連合軍は後北条氏の守る河越城を約8万の大軍で包囲する。
しかし翌1546年、寡兵を率いて救援に駆けつけた北条氏康の電撃的な奇襲作戦(河越夜戦/河越城の戦い)により、多大の油断のあった連合軍は壊滅的な大敗を喫した。この激戦の最中、扇谷上杉氏最後の当主となった上杉朝定が敗死したことで、名門・扇谷上杉氏は事実上の滅亡を迎えた。この戦いは、関東における旧来の支配秩序(上杉氏・足利氏)の没落と、新興大名である後北条氏による関東一円の支配(覇権確立)を決定づけた、戦国時代屈指の画期的な出来事であった。