北条早雲(伊勢宗瑞) (ほうじょうそううん(いせそうずい)
【概説】
室町幕府の申次衆などを務めた名門・伊勢氏から身を起こし、伊豆の堀越公方を滅ぼして相模へと進出した戦国大名。かつては一介の素浪人から大名にのし上がった「下剋上」の典型とされたが、近年の研究により幕府の高級官僚であったことが明らかとなっている。関東一円に覇を唱えた後北条氏五代の祖。
出自の再考と駿河下向
北条早雲は、かつては素浪人から自らの実力のみで大名へと成り上がった、戦国時代における下剋上の象徴的人物として語られてきた。しかし近年の歴史学の研究により、彼の本名は伊勢盛時(いせもりとき)であり、室町幕府で政所執事を世襲する伊勢氏の一族(備中伊勢氏)の出身であることが判明している。早雲自身も将軍・足利義尚に申次衆として仕えるエリート幕臣であった。
彼の転機となったのは、姉(または妹)の北川殿が駿河国の守護・今川義忠に嫁いでいた縁である。義忠の戦死後、今川家中で家督争いが勃発すると、早雲は駿河へ下向して介入し、甥にあたる今川氏親(龍王丸)を当主につけることに成功した。この功績により、早雲は興国寺城を与えられ、今川氏の有力な客将として独自の軍事力と領地を持つこととなった。
伊豆討ち入りと「明応の政変」
1493年(明応2年)、早雲は伊豆国へ侵攻し、堀越公方(ほりごえくぼう)の足利茶々丸を襲撃して自刃に追い込んだ。この「伊豆討ち入り」は、旧来の権威を実力で打ち倒した出来事として、東国における戦国時代の幕開けを告げる象徴的事件とされている。
ただし、これも単なる個人の野心に基づく簒奪ではなく、中央の政治動向と密接に連動していた。同年、京都では管領の細川政元が将軍・足利義材を追放し、足利義澄を新将軍に擁立する明応の政変が勃発していた。早雲の伊豆侵攻は、新政権を樹立した細川政元や、親の仇である茶々丸の討伐を望む新将軍・義澄の意向を受けた、幕府権力と結びついた正当な軍事行動であったと現在では評価されている。
相模進出と関東経略の端緒
伊豆国を平定した早雲の目は、次いで関東へと向けられた。1495年(明応4年、年代には異説あり)には、謀略を用いて相模国の小田原城を大森氏から奪取したとされる。これを足がかりに相模国への本格的な侵攻を開始し、相模の有力領主であった三浦道寸(義同)らと長年にわたり激しい抗争を繰り広げた。
1516年(永正13年)、早雲は三浦氏の拠点である新井城を陥落させてこれを滅亡させ、ついに相模国を平定した。この伊豆・相模の領有によって、後に五代にわたって関東に君臨し、安土桃山時代に豊臣秀吉の小田原攻めで滅亡するまで関東の覇者であり続けた後北条氏の強固な基盤が築かれたのである。なお、彼自身は生涯「伊勢宗瑞」と名乗っており、「北条」の姓を用いたのは嫡男・氏綱の代からである。
優れた民政と『早雲寺殿廿一箇条』
早雲が戦国大名のパイオニアとして高く評価される理由は、その優れた軍事手腕だけでなく、領国支配における先進的な民政にある。伊豆平定直後には、農民の負担を軽減するために年貢率を四公六民(収穫の4割を領主の取り分、6割を農民の取り分とする)に定めたと伝わる。また、東国では極めて早い段階で検地(指出検地)を実施し、土地と収穫量を正確に把握して在地領主や農民を直接支配する体制を整えた。
さらに、早雲が書き残したとされる家訓『早雲寺殿廿一箇条』(そううんじどのになのかじょう)は、武士としての日常の心得や学問の奨励、領民に対する仁政の重要性を説いたものであり、後の戦国大名が制定する分国法の先駆けとして位置づけられている。このように、実力による領土拡大と合理的な領国経営を両立させた点に、北条早雲の歴史的意義が存在する。