足利茶々丸 (あしかがちゃちゃまる)
?〜1498年
【概説】
室町時代後期の第2代堀越公方。父である初代公方・足利政知の急死後、家督をめぐる内紛を起こして強引に地位を奪うも、1493年に伊勢宗瑞(北条早雲)に襲撃されて伊豆を追われ、のちに滅ぼされた人物。関東における戦国時代の幕開けを象徴する存在として知られる。
お家騒動と堀越公方就任
足利茶々丸は、初代堀越公方である足利政知の長男として生まれた。しかし、素行の悪さを理由に廃嫡され、土牢に幽閉されていたとされる。父の政知は、茶々丸の異母弟である潤童子を後継者に立てたが、1491年に政知が没すると、茶々丸は牢を脱出してクーデターを決行。潤童子とその母である円満院を殺害し、強引に堀越公方の座を奪い取った。
この強硬手段による公方就任は、領国内の国人たちの反発を招いただけでなく、中央の室町幕府、とりわけ潤童子の実兄であり、後に11代将軍となる足利義澄との間に決定的な対立を生むこととなった。
「伊豆討ち入り」と滅亡への軌跡
1493年(明応2年)、駿河の今川氏を後ろ盾とする伊勢宗瑞(北条早雲)が伊豆国へ侵攻し、茶々丸が拠る堀越御所を襲撃した。これが戦国時代の画期とされる伊豆討ち入りである。この早雲の行動は、同年に京都で発生したクーデター「明応の政変」によって将軍となった足利義澄が、母と弟の仇討ちを命じた幕府の追討令(またはそれに準ずる意向)に基づいたものであったとされる。
御所を追われた茶々丸は即座に滅亡したわけではなく、その後も伊豆国内や、隣国である甲斐の武田氏、相模の三浦氏などの協力を得て、数年にわたり宗瑞への激しい抵抗を続けた。しかし、最終的には1498年に伊豆最南端の深根城を攻め落とされ、自害に追い込まれた。これにより堀越公方は2代で滅亡し、後北条氏による関東進出の足がかりが築かれることとなった。