武田信玄(武田晴信) (たけだしんげん / たけだはるのぶ)
【概説】
戦国時代から安土桃山時代初期にかけて甲斐国を治め、武田氏の全盛期を築いた戦国大名。信濃国へ侵攻して領国を拡大し、越後の上杉謙信と数度にわたる川中島の戦いを繰り広げた。優れた軍略のみならず、法度制定や治水事業などの内政面でも手腕を発揮し、「甲斐の虎」として周辺諸国から恐れられた。
家督相続と信濃侵攻
武田信玄(初名は晴信)は、甲斐国(現在の山梨県)の守護・武田信虎の嫡男として生まれた。1541年、家臣団の支持を背景に独裁的であった父・信虎を駿河国の今川氏のもとへ追放し、21歳で家督を相続した。これは単なる親子間の対立ではなく、度重なる外征で疲弊した領民や国人衆の不満を背景とした一種のクーデターであったと評価されている。
家督を継いだ信玄は、甲斐の地理的条件(海がなく平野が少ない)を克服するため、豊かな土地を求めて北の信濃国(現在の長野県)への侵攻を開始した。諏訪氏を滅ぼし、小笠原氏や村上氏などの有力国人を次々と打ち破って信濃の大部分を平定した。この過程で武田家は強力な家臣団を組織化し、のちに「武田二十四将」と称される精固な軍事基盤を固めていった。
宿敵・上杉謙信との川中島の戦い
信濃侵攻の進展は、領地を追われた北信濃の国人衆が越後国(現在の新潟県)の長尾景虎(のちの上杉謙信)に救援を求めたことで、新たな局面を迎えた。武田軍の勢力圏が越後国境に迫ったことで、両雄の衝突は避けられないものとなった。
1553年から1564年にかけて、両者は北信濃の覇権を巡って計5回に及ぶ川中島の戦いを繰り広げた。特に1561年の第4次合戦は、信玄の弟・武田信繁や軍師・山本勘助が討死するなど、戦国時代において類を見ない激戦となった。この長期にわたる抗争の結果、信玄は北信濃の実質的な支配を確定させたものの、上杉氏の強力な抵抗により日本海側への進出は阻まれることとなった。
領国経営と『甲州法度之次第』
信玄は軍事面だけでなく、優れた内政家でもあった。1547年には分国法である『甲州法度之次第(信玄家法)』を制定し、家臣の統制や領民の保護、喧嘩両成敗などを明文化した。これにより、中世的な国人領主の連合体から、大名を頂点とする強固な中央集権体制への移行を図った。
また、農業生産力を向上させるため、釜無川の氾濫を防ぐ大規模な治水工事を行い、現在も遺構が残る「信玄堤」を築いた。さらに、領内の金山(黒川金山など)を積極的に開発して甲州金を鋳造し、武田軍の強大な軍事力や情報網を支える確固たる経済基盤を確立した。
外交政策の転換と駿河侵攻
外交面において信玄は、1554年に駿河の今川義元、相模の北条氏康と婚姻関係を結び、甲相駿三国同盟を成立させていた。これにより背後の安全を確保し、信濃侵攻や川中島の戦いに注力することができた。しかし、1560年の桶狭間の戦いで今川義元が織田信長に討たれ、今川氏の勢力が衰退すると、信玄はリアリストとして外交方針を大きく転換する。
1568年、信玄は同盟を破棄して今川領の駿河への侵攻を開始した。これにより北条氏との同盟も破綻し、一時的に周囲を敵に囲まれる窮地に陥ったが、信玄は徳川家康や織田信長と結ぶことでこれを切り抜け、見事に駿河を平定した。これにより武田氏は念願の「海への出口」を獲得し、甲斐・信濃・駿河に加え上野の一部を支配する大大名へと成長した。
西上作戦と巨星の死
晩年の信玄は、上洛を果たし勢力を急拡大する織田信長と対立を深めていった。室町幕府第15代将軍・足利義昭が発した信長討伐の密令(信長包囲網)に呼応した信玄は、1572年に大軍を率いて甲府を出発し、西上作戦を開始した。遠江国(現在の静岡県西部)へ侵攻した武田軍は、同年の三方ヶ原の戦いで徳川家康・織田信長連合軍を完膚なきまでに粉砕し、その圧倒的な武威を天下に見せつけた。
しかし、進撃途上の1573年(元亀4年)、信玄は持病の悪化により信濃国駒場にて病死した。享年53。彼の死は遺言により秘匿されたが、武田軍は甲斐への撤退を余儀なくされた。信長包囲網における最大の脅威であった信玄の死により、織田信長は窮地を脱して天下統一事業を推し進めることになる。一方、跡を継いだ四男の武田勝頼は、偉大な父の遺産と重圧を引き継ぎ、のちの長篠の戦いでの敗北、そして武田家滅亡という悲劇へ向かっていくこととなる。