上杉謙信(長尾景虎) (うえすぎけんしん / ながおかげとら)
【概説】
戦国時代から安土桃山時代にかけて越後国(現在の新潟県)を支配した戦国大名。初めは長尾景虎と名乗ったが、関東管領・上杉憲政から家督を譲り受けて上杉氏を継承し、のちに出家して謙信と号した。私利私欲の領土拡大を戒め、大義名分を重んじた「義将」として知られ、武田信玄や北条氏康、さらには織田信長といった強敵たちと激しい合戦を繰り広げた。
越後統一と長尾氏からの飛躍
上杉謙信は享禄3年(1530年)、越後国守護代を務める長尾為景の末子として誕生した。初名は長尾景虎である。父の死後、病弱であった兄・晴景に代わって家督を継ぐよう家臣団から擁立され、兄弟間の争いを経て天文17年(1548年)に越後長尾氏の当主となった。その後、国内で反発する国人領主たちを次々と軍事力で屈服させ、20代前半にして越後国の事実上の統一を成し遂げた。
当時の越後国は、守護である上杉氏が没落し、下克上の嵐が吹き荒れる情勢にあった。景虎は卓越した統率力でこの混乱を収拾したが、自らが下克上によって権力を奪うのではなく、あくまで室町幕府の伝統的秩序や権威を尊重する保守的な思想を持っていたことが、後の彼の行動原理を決定づけることとなる。
武田信玄・北条氏康との激闘と関東管領就任
謙信の生涯を語る上で欠かせないのが、甲斐国の武田信玄および相模国の北条氏康との激しい抗争である。信濃国に侵攻する武田信玄に対し、領地を追われた村上義清ら信濃の国人衆から救援を求められた景虎は、これを「義」の戦いとして出兵した。これが計5回、約12年間にわたって北信濃の覇権をめぐり争われた川中島の戦いである。特に永禄4年(1561年)の第4回(八幡原の戦い)は、両軍の総大将が直接刃を交えたとも伝わる激戦として有名である。
また、関東地方では北条氏康の勢力拡大によって所領を追われた関東管領・上杉憲政を越後に保護した。景虎は憲政の要請に応じ、大軍を率いて関東へ侵攻し小田原城を包囲している。この際、鎌倉の鶴岡八幡宮において山内上杉家の家督と関東管領の職を譲り受け、名を上杉政虎(のち輝虎、最終的に出家して謙信)と改めた。関東管領という室町幕府の正式な役職を得たことは、彼が他国へ軍事介入するための確固たる大義名分となった。
「義将」を支えた強大な軍事力と経済基盤
謙信は自らを仏教の武神である毘沙門天の化身と信じ、軍旗に「毘」の文字を掲げて戦場を駆けた。自国の領土拡大を第一目的とする同時代の多くの戦国大名とは異なり、同盟国や救援を求めてきた者のために出兵する姿勢から後世「義将」と称えられたが、その頻繁な対外遠征を可能にしたのは越後国の豊かな経済基盤であった。
越後は日本海交易の要衝であり、謙信は当時衣類の原料として重要だった特産品の青苧(あおそ)の専売制を敷き、京都方面への販売ルートを掌握して莫大な利益を上げた。さらに佐渡の金銀山や越後国内の金山開発を推し進め、豊富な資金力を背景に鉄砲などの新兵器をいち早く大量に調達した。彼の無類の強さは、単なる戦術の巧みさだけでなく、極めて合理的な経済政策と兵站能力に支えられていたのである。
織田信長との対立と急死、その後の影響
晩年、天下統一を目指し勢力を拡大する織田信長との対立が不可避となった。室町幕府第15代将軍・足利義昭が発した信長討伐の令(信長包囲網)に呼応した謙信は、長年の宿敵であった武田氏や北条氏、一向一揆などと和睦・同盟を結び、反織田勢力の中核として立ち上がった。天正5年(1577年)の手取川の戦いでは、柴田勝家らを主将とする織田軍を大いに打ち破り、その圧倒的な軍事的実力を天下に見せつけた。
しかし翌天正6年(1578年)、大軍を率いていよいよ上洛を開始しようという矢先、春日山城内で急死した(死因は脳溢血と推定される)。享年49。謙信が生涯不犯(妻帯しないこと)を貫き実子がいなかったため、死後すぐに養子である上杉景勝と上杉景虎の間で激しい後継者争い(御館の乱)が勃発した。この内乱によって上杉氏の勢力は大きく衰退し、周辺大名のパワーバランスが崩れたことで、結果的に織田信長の覇権確立を早めることとなった。