尾張国

現在の愛知県西部にあたり、織田氏が台頭して信長の天下統一の拠点となった国はどこか?
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尾張国

7世紀後半〜1871年

【概説】
現在の愛知県西部に位置した令制国の一つ。室町時代後期から戦国時代にかけて、守護代の家臣であった織田氏が下克上によって実権を握った。のちに織田信長がこの地を平定し、豊かな経済力を背景に天下統一事業の出発点としたことで知られる。

地理的特質と強固な経済基盤

尾張国は、広大な濃尾平野を擁し、古くから極めて高い農業生産力を誇る穀倉地帯であった。同時に、木曽三川(木曽川・長良川・揖斐川)が流れ込む伊勢湾に面しているため、水上交通の便にも恵まれていた。特に中世においては、伊勢神宮への参宮拠点として栄えた津島や、熱田神宮の門前町にして湊町である熱田などを抱え、莫大な商業利益を生み出す流通経済の要衝として発展した。この「豊かな農業生産力」と「膨大な商業資本」という両輪が、のちに織田氏が戦国大名として飛躍するための強固な土台となったのである。

室町・戦国期の動乱と織田氏の台頭

室町時代、尾張国の守護は三管領の一つである名門・斯波氏(しばし)が代々務めていたが、応仁の乱以降は守護代を務める織田氏(大和守家・伊勢守家)に実権が移っていった。さらに戦国時代が深まると、守護代家内での対立や弱体化が進む。その隙を突いて台頭したのが、守護代大和守家の家臣(清洲三奉行の一つ)に過ぎなかった織田弾正忠家(だんじょうのちゅうけ)である。弾正忠家の織田信定や織田信秀(信長の父)は、前述の津島や熱田の湊町を支配下に収めることで豊富な資金力を獲得し、主家や他の奉行家を凌駕する一大勢力へと急成長を遂げた。

織田信長による統一と天下布武への道

信秀の死後、家督を継いだ織田信長は、一族内の激しい抗争を勝ち抜き、主君である守護代や守護といった旧勢力を次々と追放・討伐して、1559年(永禄2年)に尾張国の完全統一を果たした。翌1560年(永禄3年)の桶狭間の戦いでは、駿河から侵攻してきた強大な今川義元を奇襲によって打ち破り、その名声を全国に轟かせた。信長は尾張という強力な経済力と人的資源を最大限に活用し、隣国の美濃(現在の岐阜県南部)を攻略する。そして拠点を岐阜へと移し、京都への上洛を果たして天下布武(天下統一)への道をひた走ることとなる。尾張国は、日本の歴史を中世から近世へと大きく転換させる原動力となった地である。

豊臣・徳川政権下における尾張

信長が本能寺の変で横死した後、尾張国は清須会議などを経て織田信雄や豊臣秀次など、豊臣系の大名によって支配された。1600年(慶長5年)の関ヶ原の戦い以降は、徳川家康の九男・徳川義直が清洲城に入封する。1610年(慶長15年)には、水害に弱かった清洲から熱田台地への大規模な都市移転(清洲越し)が行われ、新たに天下普請によって名古屋城が築城された。これ以降、尾張国は徳川御三家の筆頭である尾張徳川家61万石の領国となり、江戸時代を通じて平和と繁栄を享受し、独自の豊かな武家文化・町人文化を育んでいくこととなった。

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最終更新:2026年6月17日 @ 23:49

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