尼子氏

出雲国の守護代から台頭し、中国地方を中心に強大な勢力を築いて毛利元就と覇権を争った戦国大名は大名か?
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重要度
★★

尼子氏 (あまごし)

15世紀〜17世紀初頭

【概説】
室町幕府の四職家の一つである京極氏の分家にあたり、出雲国を拠点に守護代から戦国大名へと発展した一族。卓越した軍略と政治力を発揮した尼子経久の時代に全盛期を築き、中国地方の覇権をめぐって大内氏や毛利氏と激しい抗争を展開した。毛利氏によって滅ぼされた後も、山中幸盛(鹿介)らによる熱烈な御家再興運動が展開されたことで知られる。

下克上による出雲支配の確立と勢力拡大

尼子氏は、近江源氏の佐々木氏一門である京極氏の分流にあたる。室町時代中期に京極氏が出雲守護に任命されると、尼子氏はその守護代として出雲国に下向し、現地での基盤を固めていった。しかし、応仁の乱以降に京極氏が内紛で衰退すると、守護代であった尼子経久(つねひさ)は自立の動きを強めていく。

経久は一時期、幕府や守護の圧力によって出雲守護代の地位を剥奪され、本拠である月山富田城(がっさんとだじょう)を追放された。しかし、1486年に奇襲によって同城を奪還すると、出雲国内の国人領主たちを次々と服属させ、事実上の守護としての地位を確立した。これが典型的な下克上の事例とされる。さらに経久は、中国地方の要衝である石見銀山の支配権をめぐって大内氏と対立し、備後、安芸、美作、備前など近隣諸国へ勢力を伸ばし、「陰陽十一か国」に影響力を及ぼす大勢力を築き上げた。

大内・毛利氏との死闘と「新宮党」の粛清

尼子氏の急速な勢力拡大は、西国の雄である周防の大内氏、および安芸国で急速に台頭しつつあった毛利氏との全面衝突を引き起こした。経久の孫である尼子晴久(はるひさ)は、1540年に毛利氏の本拠である吉田郡山城を包囲したが、大内氏の援軍を得た毛利元就に大敗を喫した(吉田郡山城の戦い)。これにより尼子氏は守勢に立たされることとなる。

さらに晴久の時代には、一族の強力な精鋭軍事集団であった「新宮党(しんぐうとう)」の粛清という内紛が発生した。新宮党を率いる尼子国久(経久の子)とその一族が強大な力を持ちすぎたため、晴久は権力の一元化を図って彼らを誅殺した。しかし、この粛清は尼子氏の軍事力を著しく低下させることになり、宿敵である毛利元就につけ入る隙を与える結果となった。晴久の死後、跡を継いだ尼子義久の代になると毛利氏の侵攻を食い止めることができず、1566年、月山富田城は包囲されて降伏し、戦国大名としての尼子氏は一時滅亡した。

「願わくは、我に七難八苦を与えたまえ」と尼子再興運動

尼子氏の滅亡後、主家の再興を強く願う遺臣たちによって執念とも言える再興運動が開始された。その中心人物が、後に「山陰の麒麟児」と称される山中幸盛(鹿介)である。幸盛らは、京都の東福寺で出家していた尼子誠久(新宮党の当主)の遺児である尼子勝久(かつひさ)を擁立し、毛利氏に対する武装蜂起を繰り返した。

当時、織田信長は天下統一に向けて中国地方の毛利氏と対立しており、尼子再興軍はこの織田氏の勢力(羽柴秀吉の軍勢)と同盟を結んで毛利氏に対抗した。再興軍は播磨国の上月城(こうづきじょう)を守備して前線に立ったが、1578年、毛利氏の大軍に包囲された際、織田信長の方針転換(三木城の別所長治謀反への対応を優先)により見捨てられる形となった。その結果、上月城は落城して尼子勝久は自害し、山中幸盛も捕らえられて護送途中に殺害された。これにより、十数年に及んだ尼子氏の再興運動は完全に終焉を迎えたが、その悲劇的な歴史は後世に講談などで広く語り継がれることとなった。

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最終更新:2026年6月17日 @ 23:49

日本史一問一答(ランダム)

Q. 豪族居館や集落の防御性を高めるため、あるいは権威を示すために周囲にめぐらされた深い溝を何というか?
Q. 朝鮮出兵の際、日本軍が討ち取った首の代わりに持ち帰った朝鮮の人々の耳や鼻を、豊臣秀吉が京都に埋めて供養した塚を何というか?
Q. 旗本・御家人への俸禄米が保管・支給された、江戸の浅草にあった幕府の巨大な米蔵はどこか。