月山富田城(富田城) (がっさんとだじょう(とだじょう)
【概説】
出雲国(現在の島根県安来市広瀬町)に築かれた、中世から近世初頭にかけての日本の代表的な山城。戦国大名・尼子氏の本拠地として知られ、難攻不落を誇った要害。のちに毛利元就による執拗な兵糧攻めによって落城し、江戸時代初期に廃城となった。
尼子氏の本拠地と「難攻不落」の縄張り
月山富田城は、飯梨川(富田川)に面した標高約190メートルの月山山頂に築かれた。その起源は鎌倉時代初期に佐々木義清が出雲守護として入部した時期にさかのぼるとされるが、城が大規模な要塞へと発展したのは室町時代後期、出雲守護代から戦国大名へと成長を遂げた尼子経久の時代である。
城の最大の特徴は、その極めて強固な防御構造(縄張り)にある。山頂の本丸・二ノ丸・三ノ丸を中核とし、そこから放射状に伸びる尾根に数多くの郭(くるわ)を配置。さらに、城の周囲には菅谷口、塩谷口、宇賀口という3つの厳重な登城口が設けられ、自然の地形を巧みに利用した堀や切岸が敵の侵入を阻んだ。山麓には広大な城下町が形成され、政治・軍事・経済が一体となった巨大な政治都市でもあった。
大内・毛利氏との死闘:二度にわたる富田城の戦い
月山富田城の名を天下に知らしめたのが、中国地方の覇権をめぐる大国同士の激しい攻防戦である。一度目の危機は天文11年(1542年)から翌年にかけての第一次月山富田城の戦いであった。周防国の大内義隆が、尼子氏の弱体化を狙って大軍で包囲したが、尼子氏の頑強な抵抗と、大内方に臣従していた国人領主たちの離反により、大内方は大敗を喫して撤退した。
しかし、永禄5年(1562年)から始まった第二次月山富田城の戦いでは、大内に代わって台頭した安芸国の毛利元就が遠征軍を率いて来襲した。元就は、力攻めではこの要害を落とせないと判断し、周囲の支城を次々と攻略。富田城を完全に孤立させ、陸路・水路からの兵糧搬入ルートを遮断する徹底的な兵糧攻め(干殺し)を敢行した。永禄9年(1566年)、城内の兵糧が底を突き、投降者が相次いだことで、尼子氏当主の尼子義久は降伏を余儀なくされ、守護大名としての尼子氏は一度滅亡した。
尼子再興戦と城の終焉
毛利氏の支配下に置かれた後も、月山富田城をめぐる戦いは終わらなかった。尼子氏の遺臣である山中幸盛(山中鹿介)らは、織田信長や豊臣秀吉の支援を得つつ、尼子勝久を擁して富田城の奪還を目指す「尼子再興戦」を度々展開した。しかし、毛利氏の強固な防衛を崩すことはできず、天正6年(1578年)の上月城の戦いをもって再興運動は完全に潰えた。
その後、関ヶ原の戦い(1600年)を経て出雲・隠岐両国に封じられた堀尾吉晴が一時的に月山富田城に入ったが、中世風の山城は近世の領国経営には不向きであったため、吉晴は新たに松江城を築城。慶長16年(1611年)に松江城への移転が完了したことに伴い、月山富田城はその長い歴史に幕を下ろし、廃城となった。