安芸 (あき)
【概説】
現在の広島県西部に位置する、山陽道の令制国。中世から戦国時代にかけては有力な国人領主が割拠し、なかでも吉田郡山城を拠点とした毛利氏が台頭して中国地方の覇者となる足がかりとなった地域。
中世安芸国の特質と国人領主の割拠
安芸国は、北部に険しい中国山地、南部には瀬戸内海(広島湾)を擁し、陸海双方の交通の要衝として重要な位置を占めていた。鎌倉時代から室町時代にかけては、武田氏が守護を務めたもののその支配力は国全体を圧倒するほどではなく、領内には多数の有力な国人(こくじん)が割拠する状態が長く続いた。毛利氏をはじめ、吉川氏、小早川氏、宍戸氏、熊谷氏などの国人領主たちは、惣領制の解体に伴って独立性を強め、時に互いに結びつき(国人一揆)、時に隣国の巨大守護大名である周防の大内氏や出雲の尼子氏の勢力争いに翻弄されながら自立を模索した。
毛利氏の台頭と安芸国から広がる覇権
16世紀前半、安芸国吉田(現在の安芸高田市)の国人領主であった毛利元就(もうりもとなり)が登場すると、安芸の政治状況は激変する。元就は卓越した権謀術数と婚姻外交(「毛利両川」体制の確立)により、周囲の国人領主たちを次々と従属させて安芸国の統一を成し遂げた。さらに1555年、厳島(宮島)を舞台に繰り広げられた厳島の戦いにおいて、周防大内氏の実権を握る陶晴賢の大軍を奇襲によって撃破。これを機に防長経略を進めて大内氏を滅ぼし、次いで出雲の尼子氏をも破った。安芸を本国とする毛利氏は、一国規模の領主から一躍、中国地方10カ国を支配する戦国大名へと急成長を遂げたのである。
豊臣政権期における広島城築城と近世への移行
織田信長、次いで豊臣秀吉が天下統一へと乗り出すと、毛利氏は秀吉の政権下で臣従を選び、五大老の一角として遇された。この安土桃山時代において、毛利輝元は山間部にあるそれまでの吉田郡山城を離れ、瀬戸内海の海上交易や太田川の物資流通の結節点である太田川デルタ(広島湾)に目をつけ、1589年から広島城の築城と城下町の整備を開始した。これにより、政治・経済の拠点は山間部から平野部・沿岸部へと大きくシフトし、現在の広島市の基礎が築かれた。1600年の関ヶ原の戦いの結果、毛利氏は周防・長門に減封され安芸を去るが、その後は福島正則、次いで浅野氏が広島藩主として入り、安芸国は幕藩体制下における有力な雄藩として近世へと引き継がれていった。