長宗我部氏掟書(長宗我部元親百箇条) (ちょうそかべしおきてがき(ちょうそかべもとちかひゃっかじょう)
【概説】
安土桃山時代の1597(慶長2)年に、土佐国の戦国大名である長宗我部元親・盛親父子が制定した、全100条からなる分国法。豊臣政権下における大名領国支配の安定と、家臣団および領民の統制を目的として編纂された。戦国分国法の最後期に位置づけられ、中世から近世へと移行する過渡期の社会実態を色濃く反映している史料である。
豊臣大名への転落と掟書制定の背景
長宗我部元親は、一時的に四国全土をほぼ制圧するほどの勢力を誇ったが、1585(天正13)年の豊臣秀吉による四国征伐に敗北し、土佐一国のみを安堵される豊臣大名へと組み込まれた。さらに、秀吉の九州平定(戸次川の戦い)において将来を嘱望された嫡男の信親を失い、家督継承をめぐって家臣団の中に深刻な対立(お家騒動)が生じることとなった。
このような領国支配の危機的状況において、1597(慶長2)年、元親は後継者となった三男の盛親とともに、領国内の再検地(慶長検地)の実施と並行して、領国支配の基本法となる「長宗我部氏掟書(長宗我部元親百箇条)」を制定した。これは、分裂含みであった家臣団を再結束させ、豊臣政権の法秩序に適応しつつ、長宗我部氏の領国支配権を再確立するための自衛の策であった。
「百箇条」の具体的内容と一領具足の統制
全100条に及ぶ掟書の内容は多岐にわたる。まず、豊臣政権の政策を反映し、キリスト教(伴天連)の禁止や、勝手な寺社の建立禁止などを明記した。また、家臣や領民の不法な武力衝突を防ぐための喧嘩両成敗法や、無許可での婚姻(私婚)の禁止など、戦国分国法に共通する伝統的な規範も多く盛り込まれている。
特に注目されるのが、土佐独自の軍事組織である一領具足(普段は農業に従事し、動員がかかると鎧兜を身につけて出陣する半農半士の地侍・土豪層)への統制である。掟書の中では、彼らに対して質素倹約を命じ、農業に励むことを促す一方で、軍役の徹底を求めている。さらに、秀吉の兵農分離政策(太閤検地や刀狩)に対応するため、百姓の武装を制限し、他国への逃亡を厳しく禁じる条項なども詳細に規定された。
中世から近世への過渡期を示す歴史的意義
長宗我部氏掟書は、伊達氏の「塵芥集」などと並び、日本の戦国分国法の代表例として知られるが、その制定時期はすでに豊臣政権が日本全国を統一した後の安土桃山時代末期(織豊期)にあたる。そのため、独立性の高い戦国大名の固有法としての性格を持つ一方で、豊臣政権の「天下の法」に融和しようとする近世大名法としての性格をあわせ持っている。
この掟書は、中世的な自立性の強い在地社会から、近世的な兵農分離と一円支配へと社会構造が移行していく「過渡期の象徴」といえる。しかし、この掟書による統制もむなしく、長宗我部氏は1600年の関ヶ原の戦いで西軍に属して改易となり、掟書が実質的に機能した期間は極めて短かった。その後、土佐に入国した山内氏による支配に対して、長宗我部氏の遺臣である一領具足らが激しく抵抗した背景には、この掟書によって一定の地位や権利を保障されていたという自負があったとも指摘されている。