府中(駿府)
【概説】
駿河国(現在の静岡県静岡市)に位置する、古代の国府に由来する地名。戦国時代には守護大名今川氏の本拠地として「小京都」と呼ばれる文化的繁栄を極め、のちに徳川家康が大御所として君臨した駿府城の城下町として政治・経済の中心的役割を果たした都市。
今川氏の城下町と「戦国小京都」としての繁栄
駿河国の「府中」は、もともと駿河国府が置かれたことに由来する。室町時代から戦国時代にかけて、この地を領した守護大名今川氏が今川館(のちの駿府城の地)を構え、領国支配の拠点とした。今川氏の全盛期を築いた今川義元の時代には、応仁の乱などの戦乱を避けて京都から下向した多くの公家や僧侶、文化人が府中に滞在した。冷泉為和や山科言継などの第一流の文化人がもたらした京都の高度な文化が定着し、府中は「東国の小京都」として華やかに栄えた。また、臨済宗の僧侶である太原雪斎による外交・内政の補佐や、英才教育を施された幼少期の松平竹千代(のちの徳川家康)の抑留地としても知られ、高度な学問と政治的教養が息づく都市であった。
徳川家康の「大御所政治」と駿府の近代化
1560年(永禄3年)の桶狭間の戦いで今川義元が敗死し、今川氏が没落した後は、武田氏や徳川氏による領有を経て、豊臣政権下では中村一氏が配された。関ヶ原の戦いを経て江戸幕府を開いた徳川家康は、1605年(慶長10年)に将軍職を三男の秀忠に譲ると、幼少期を過ごした駿府(旧府中)へと移り住んだ。家康は駿府城を大改築し、自ら「大御所」として君臨した。この時期、幕府の重要外交や政治決定の多くが駿府で行われ、江戸と並ぶ「もう一つの首都」として機能した。この二元政治体制は大御所政治と呼ばれ、駿府には多くの大名や御用商人、海外の使節(スペイン人宣教師ソテロや英国人ウィリアム・アダムスなど)が往来し、国際色豊かな大都市へと発展を遂げた。江戸時代中期以降は、再び「府中(駿府府中)」と呼ばれ、東海道の要衝・宿場町として、また駿府城代が置かれる幕府直轄地として重要な地位を維持し続けた。