宇治・山田 (うじ・やまだ)
【概説】
伊勢神宮の内宮・外宮の門前町として発展した、宇治(内宮門前)と山田(外宮門前)の総称。室町時代から戦国時代にかけて、伊勢信仰の興隆に伴い、堺や博多に匹敵する高度な中世自治都市を形成した。
内宮・外宮の発展と伊勢信仰の広がり
伊勢神宮の内宮(皇大神宮)の門前町として栄えた「宇治」と、外宮(豊受大神宮)の門前町として栄えた「山田」は、中世後期において急速な発展を遂げた。その原動力となったのが、全国の庶民に伊勢参拝を促した御師(おんし)の活動である。御師たちは伊勢信仰を布教し、参拝者の宿泊や道中の世話を行うことで、膨大な数の参拝客(お伊勢参り)を宇治・山田に誘致した。これにより両地域は、単なる宗教施設周辺の集落から、商工業が高度に発達した都市へと変貌を遂げた。しかし、宇治(内宮側)と山田(外宮側)は、参拝客の利害や経済的主導権、さらに神宮内部の対立を背景にしばしば激しく対立し、両者間で「宇治山田合戦」と呼ばれる大規模な武力衝突を繰り返した歴史も持つ。
「宇治会合」と「山田三方」による自治経営
戦国時代の治安悪化に対抗するため、宇治・山田はそれぞれ独自の自治組織を形成した。宇治では「宇治会合(うじえごう)」と呼ばれる合議制の組織が作られ、山田では八日市場・十日市場・十六日市場の代表からなる「山田三方(やまださんぽう)」が組織された。これらの自治組織は、有力な御師や商人が中心となって運営され、裁判権や徴税権、さらには自衛のための軍事力(警察権)まで行使した。また、町全体に堀や土塁を巡らせることで、戦国大名の侵入を防ぐ防衛体制を整えた。このように、宇治・山田は領主の支配を受けない独立性の高い「自由都市(自治都市)」として、戦国期の混乱を生き抜いたのである。
織豊政権の台頭と自治の終焉
戦国時代末期になると、天下統一を進める中央権力の介入を強く受けるようになる。織田信長は北畠氏を駆逐して伊勢を制圧すると、宇治・山田の自治を尊重しつつも、自らの支配下に置こうとした。続く豊臣秀吉の時代には、太閤検地が実施されて神領としての特権や独自の課税権が否定され、自治権は大きく制限されることとなった。そして徳川家康が江戸幕府を開くと、1603年に山田奉行(伊勢山田奉行)が設置され、幕府の直轄地(天領)として完全に組み込まれた。これにより、長年にわたり維持されてきた宇治・山田の自律的な都市運営は終わりを告げ、近世的な門前町へと再編されていった。