スペイン
【概説】
大航海時代にアメリカ大陸やフィリピンなどを支配し、16世紀後半に太平洋を横断して日本に来航したヨーロッパの国家。日本史においてはポルトガルとともに「南蛮」と称され、キリスト教の布教と南蛮貿易を通じて安土桃山時代から江戸時代初期の政治・外交に多大な影響を与えた。
大航海時代とアジアへの接近
15世紀末から始まった大航海時代において、スペインはアメリカ大陸に広大な植民地を築き上げ、そこから産出される銀を背景に世界的な覇権を握った。1565年にはアジアにおける拠点としてフィリピンを領有し、1571年にマニラを建設した。これにより、メキシコ(アカプルコ)とマニラを結ぶ太平洋横断航路(ガレオン貿易)が確立し、スペインは中国産の生糸や陶磁器、そして日本の銀を求めるアジア交易ネットワークに本格的に参入することとなった。
日本来航と南蛮貿易の展開
日本へのヨーロッパ人の到来は、1543年のポルトガル人による種子島への鉄砲伝来が最初であったが、スペイン人が日本と直接的な接触を持つのはそれより数十年遅れることとなる。1584(天正12)年、マニラからマカオへ向かっていたスペイン船が肥前の平戸に漂着したのが、スペイン船来航の端緒である。日本においてスペイン人は、先行したポルトガル人と同様に「南蛮人」と呼ばれ、彼らとの交易は南蛮貿易として発展した。
江戸幕府を開いた徳川家康は、スペイン領のノビスパン(メキシコ)との直接貿易や、最新の鉱山技術の導入を強く望み、スペインに対して積極的な外交交渉を行った。1613(慶長18)年には、仙台藩主の伊達政宗が支倉常長を正使とする慶長遣欧使節をスペイン国王フェリペ3世およびローマ教皇のもとへ派遣しており、両国間には太平洋をまたいだスケールの大きな外交関係が築かれつつあった。
宣教師の派遣とポルトガルとの競合
南蛮貿易と表裏一体であったのが、キリスト教の布教活動である。日本での布教は、当初ポルトガルの庇護下にあったイエズス会が独占状態にあった。しかし、スペインがフィリピンを拠点として日本へ進出すると、スペイン系の托鉢修道会であるフランシスコ会やドミニコ会、アウグスティノ会の宣教師たちが次々と来日し、布教を開始した。
先行するイエズス会が上層階級へのアプローチや日本文化への適応を重視したのに対し、スペイン系の修道会は貧困層への救済活動や公然とした布教を強行する傾向があった。これにより、日本国内において布教方針の違いによる修道会同士の激しい対立が生じただけでなく、その背後にあるポルトガルとスペインの国家間の権益争いや敵対関係までもが日本に持ち込まれることとなった。
サン・フェリペ号事件と国交断絶への道
スペインによる積極的な布教活動は、やがて日本の権力者との決定的な対立を招いた。1596(慶長元)年、土佐国に漂着したスペイン船の乗組員が「スペインは宣教師を派遣して信徒を増やし、これを手引きとして他国を征服している」と豪語したとされるサン・フェリペ号事件が勃発した。これにより領土的野心を疑った豊臣秀吉は激怒し、フランシスコ会宣教師や日本人信徒ら26名を長崎で処刑した(二十六聖人殉教)。
江戸時代に入ると、家康は当初こそ貿易の利益を優先して布教を黙認していたものの、キリスト教が幕藩体制を揺るがす危険な思想であるとの認識を深め、1612年に禁教令を出した。その後、第2代将軍・徳川秀忠の時代の1624(寛永元)年、江戸幕府はスペイン船の来航を全面的に禁止し、国交を断絶した。これは、のちの「鎖国」体制完成へ向けた重大なステップとなり、日本におけるスペインの歴史的役割はここで幕を下ろすこととなった。