マカオ
【概説】
中国広東省の珠江デルタ南部に位置する港湾都市。1557年にポルトガルが明から居住権を獲得し、以後、東アジアにおけるポルトガルの拠点として、日明間の生糸・銀の中継貿易やキリスト教布教において極めて重要な役割を果たした。
ポルトガルの東アジア進出とマカオ獲得
15世紀から始まった大航海時代を背景に、ポルトガルはインドのゴア、東南アジアのマラッカを拠点として東アジア海域へ進出した。16世紀中頃、中国沿岸で密貿易を行っていたポルトガル人は、1557年に明朝から広東省南部の港町であるマカオの居住権を正式に獲得した。以後、マカオはポルトガルによる東アジア支配および対日・対明貿易の最重要拠点として機能することとなる。
日明間の中継貿易と莫大な利益
日本史においてマカオが持つ最大の意義は、南蛮貿易における中継地としての役割である。当時の明は海禁政策を敷いており、16世紀半ばには日明間の正式な国交(遣明船による勘合貿易)も途絶していた。さらに後期倭寇の活動もあって、日明間の直接貿易は極めて困難な状況にあった。ポルトガルはこの間隙を突き、マカオを拠点として日明間の中継貿易を独占的に展開した。
具体的には、マカオで仕入れた中国産の良質な生糸(白糸)や絹織物を日本の平戸や長崎へ持ち込み、見返りとして日本で産出される大量の銀を獲得した。この貿易形態はポルトガルに莫大な富をもたらし、日本側にとっても国内の絹織物業(京都の西陣織など)の発展に寄与する一方で、大量の銀が海外へ流出する要因ともなった。
イエズス会によるキリスト教布教の拠点
マカオは貿易の拠点であると同時に、キリスト教(カトリック)布教の中心地でもあった。ローマ教皇から東アジアでの布教保護権を与えられていたポルトガルは、マカオに教会や修道院を建設した。特にイエズス会は、ここを日本や中国への布教の最前線基地と位置づけた。
マカオには神学校(コレジオ)が設立され、日本を目指す宣教師たちは必ずこの地を経由して日本語や日本文化を学んだ。また、1582年に出発した天正遣欧使節も、往路・復路ともにマカオに滞在しており、マカオは安土桃山時代における日本とヨーロッパを結ぶ宗教的・文化的な窓口として機能したのである。
「鎖国」による対日関係の断絶と衰退
しかし、17世紀に入り江戸幕府が成立すると、キリスト教の拡大を危惧する幕府によって禁教令が敷かれ、対外政策は徐々に制限されていく。幕府は生糸の価格統制のために糸割符制度を導入し、ポルトガル商人の利益を抑制した。さらに、1637年に勃発した島原の乱によってキリスト教への警戒が頂点に達すると、幕府は1639年にポルトガル船の来航を全面的に禁止した(いわゆる第5次鎖国令)。
これによって深刻な経済的打撃を受けたマカオは、翌1640年に通商再開を求める使節団を長崎へ派遣したが、幕府は使節団を処刑して断固たる姿勢を示した。こうして日本とマカオの関係は完全に断絶した。最大の市場であった日本を失い、同時期に新興国オランダが台湾やバタヴィアを拠点として東アジア海域で台頭したことも重なって、マカオの中継貿易拠点としての繁栄は急速に失われていった。