桶狭間の戦い
【概説】
1560年(永禄3年)、尾張国の織田信長が、大軍を率いて侵攻してきた駿河の今川義元の本陣を急襲し、討ち取った戦い。この劇的な勝利により信長は戦国大名としての名を全国に轟かせ、のちの天下統一事業への第一歩を踏み出すこととなった。
今川義元の尾張侵攻とその真の目的
当時の今川氏は駿河・遠江を地盤とし、松平氏を従属させて三河をも支配下に置く「海道一の弓取り」と称される強大な戦国大名であった。1560年(永禄3年)、今川義元は約2万5千から4万とも言われる大軍を率いて尾張国への侵攻を開始する。かつてはこれを、室町幕府の再興や天下に号令することを目指した「上洛」のための軍事行動とする説が一般的であった。しかし近年の研究では、国境地帯における織田氏との領土紛争の延長であり、大高城や鳴海城といった最前線の拠点を救援・確保し、尾張国の支配領域を拡大することが主目的であったとする説が有力となっている。対する織田信長は、尾張の国内統一をようやく果たしたばかりであり、動員できる兵力は数千程度に過ぎず、文字通り国家存亡の危機に立たされていた。
信長の出陣と桶狭間における激闘
今川軍の先鋒である松平元康(のちの徳川家康)らが織田方の防衛拠点を次々と落とす中、清洲城の信長は籠城戦を主張する家臣らの意見を退け、突如として少数の兵を率いて出陣した。熱田神宮での戦勝祈願を経て善照寺砦へと進軍した信長は、今川義元の本陣が桶狭間(現在の愛知県名古屋市緑区から豊明市にかけての地域)で休息を取っているという情報を得る。折しも降り出した激しい雷雨に紛れて接近した織田軍は、雨が上がった直後に今川本陣へ急襲をかけた。江戸時代の軍記物などの影響で長く信じられてきた「迂回奇襲説」に対し、現在では『信長公記』の記述に基づき、信長が義元本陣の所在を正確に把握した上で正面から一気に突撃したとする「正面攻撃説」が通説となっている。織田軍の決死の猛攻により今川本陣は大混乱に陥り、ついに信長の家臣・毛利新介らによって今川義元は討ち取られ、大軍は総崩れとなった。
今川氏の没落と清洲同盟の成立
大名本人が討ち死にするという前代未聞の敗戦により、今川軍は這々の体で駿河へと敗走した。義元の後を継いだ今川氏真は領国の動揺を抑えきれず、やがて武田信玄や徳川家康の侵攻を受けて今川氏は滅亡へと向かうことになる。一方、この戦いによって今川氏の呪縛から解放されたのが、先鋒を務めていた松平元康である。元康は手薄になった岡崎城へと帰還して独立を果たし、1562年(永禄5年)にはかつての宿敵である信長と和睦を結んで清洲同盟(織徳同盟)を締結した。この強固な同盟関係は、その後の信長の覇業を東から支え続ける極めて重要な政治的・軍事的基盤となった。
天下布武への道標と歴史的意義
桶狭間の戦いは、単に織田信長が絶体絶命の危機を脱した局地戦に留まらず、戦国時代のパワーバランスを根本から覆す歴史的な転換点であった。東方の強敵が消滅し、背後の守りを同盟国である徳川家康に任せることが可能となった信長は、義父・斎藤道三の死後に敵対関係となっていた北方の美濃国(斎藤氏)攻略へと全力を注ぐようになる。そして美濃を平定した信長は「天下布武」の印を使い始め、足利義昭を奉じて上洛を果たし、中世的な旧権威を打ち破りながら近世的な統一国家への道筋をつけていくこととなる。すなわち桶狭間の戦いは、長きにわたる戦国乱世を終息へと向かわせる、安土桃山時代(織豊時代)の幕開けを告げる嚆矢としての決定的な意義を持っているのである。