朝倉義景

織田信長の上洛要求を黙殺して対立し、浅井長政と結んで抵抗したが、滅ぼされて一乗谷を焼き払われた越前の大名は誰か?
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重要度
★★

朝倉義景 (あさくらよしかげ)

1533年〜1573年

【概説】
越前国の戦国大名であり、朝倉氏の第11代最後となった当主。織田信長の上洛要求を拒んで対立し、浅井長政や武田信玄らと結託して「信長包囲網」の一翼を担ったが、一乗谷の戦いで織田軍に敗れて自刃し、一族は滅亡した。

越前の繁栄と足利義昭の庇護

朝倉義景が家督を継いだ時期の越前国(現在の福井県嶺北地方)は、本拠である一乗谷を中心に「北陸の小京都」と称されるほどの華麗な文化が花開いていた。戦乱を避けて京都から多くの公家や文化人が下向し、義景自身も和歌や茶の湯、書画などに深く傾倒していたとされる。朝倉氏は高い経済力と軍事力を背景に、北陸地方において強固な権力基盤を確立していた。

1567年、13代将軍足利義輝が暗殺されたのち、その弟である義昭(のちの15代将軍)が朝倉氏を頼って越前一乗谷に身を寄せた。義昭は義景に対し、自分を奉じて京都へ上洛し、室町幕府を再興することを求めた。しかし、義景は国内の情勢(一向一揆との対立など)や、自身の消極的な性格からこの要請に即座に応じなかった。失望した義昭は、やがて尾張・美濃を支配していた織田信長を頼るようになり、これが朝倉家にとって歴史的なターニングポイントとなった。

信長との対立と「金ヶ崎の退き口」

1568年、織田信長は足利義昭を奉じて上洛を果たすと、義景に対して度重なる上洛要求(事実上の臣従勧告)を行った。しかし、伝統ある名門としての自負を持つ義景はこれを黙殺。これに憤激した信長は1570年、徳川家康の軍勢と共に朝倉領への侵攻を開始した(越前朝倉攻め)。

信長軍が朝倉方の守る天筒山城などを陥落させ、一乗谷へ迫ろうとしたその時、予期せぬ事態が発生する。信長の妹・お市の方を娶って同盟関係にあった近江の戦国大名・浅井長政が、織田家を裏切って朝倉方に味方したのである。浅井氏と朝倉氏は代々強固な同盟関係にあり、長政は義理よりも古くからの友誼を重んじた。これにより信長軍は背後を脅かされることとなり、世に言う「金ヶ崎の退き口」と呼ばれる命がけの撤退を余儀なくされた。この九死に一生を得た信長に対し、同年の姉川の戦いで浅井・朝倉連合軍は織田・徳川連合軍に敗れ、徐々に形勢は逆転していくこととなる。

信長包囲網の瓦解と一乗谷の滅亡

姉川の敗戦後、義景は比叡山延暦寺や石山本願寺、さらに甲斐の武田信玄らと同盟関係を結び、織田信長を包囲・孤立させる「信長包囲網」を構築した。これにより信長は一時的な窮地に立たされたが、1573年に武田信玄が上洛の途上で病死したことで状況は一変。包囲網は一気に崩壊へと向かった。

信長はこの機を逃さず、同年の天正元年(1573年)、朝倉・浅井を滅ぼすべく大軍を率いて出陣した。これに対抗すべく動員された朝倉軍であったが、長引く戦いで疲弊した家臣団の士気は低く、有力一門の朝倉景鏡や朝倉景健らが義景の出陣命令を拒否するなど、統率力が極度に低下していた。刀根坂の戦いで大敗を喫した義景は一乗谷へと逃げ帰るが、もはや防戦は不可能となり、長年培われた一乗谷の城下町は織田軍によって火を放たれ、灰燼に帰した。義景はさらに大野郡へ逃れたものの、最後は信頼していた一族の朝倉景鏡の裏切りに遭い、賢松寺にて自刃を遂げた。これにより、越前で100年以上続いた名門朝倉氏は滅亡したのである。

朝倉義景 (人物叢書 新装版)

栄華を誇った一乗谷の主として、滅亡の真相と名門朝倉氏の真実を多角的な視点から解き明かす決定的な評伝。

戦国大名朝倉氏と一乗谷 (環日本海歴史民俗学叢書 11)

越前を拠点に独自の文化を花開かせた朝倉氏の統治機構と、繁栄を支えた一乗谷の都市構造を読み解く歴史の一冊。

最終更新:2026年6月17日 @ 23:49

日本史一問一答(ランダム)

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