四国平定

1585年、関白に就任した豊臣秀吉が大軍を派遣し、長宗我部元親を降伏させて四国全土を支配下に置いた出来事を何というか?
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重要度
★★

四国平定

1585年

【概説】
1585年(天正13年)、関白に就任した豊臣(羽柴)秀吉が、四国を統一した戦国大名・長宗我部元親を降伏させ、四国地方を制圧した一連の戦役。この平定により、長宗我部氏は土佐一国に減封され、四国は豊臣政権の支配下に組み込まれた。秀吉が全国統一へ向けて本格的に乗り出した、最初の地方征伐(大規模な遠征)として重要な意義を持つ。

長宗我部元親の四国統一と秀吉との対立

土佐国(現・高知県)の戦国大名である長宗我部元親は、卓越した軍事力をもって四国各地へ勢力を伸ばし、1585年には念願であった四国のほぼ全域の平定を成し遂げた。しかし、織田信長亡きあとの中央で主導権を握りつつあった羽柴秀吉(のちの豊臣秀吉)にとって、この元親の台頭は看過できないものであった。

もともと元親は、織田信雄や徳川家康らが秀吉と対立した小牧・長久手の戦い(1584年)において家康らと結び、背後から秀吉を脅かす包囲網の一角を担っていた。秀吉は紀州征伐(和歌山県の制圧)を終えた後、元親に対して伊予・讃岐の諸令国を返還し、土佐・阿波のみの領有を認めるという講和案を提示した。しかし、苦労して四国を切り開いた元親はこの条件を拒絶したため、秀吉は武力による四国討伐(四国征伐)を決定した。

圧倒的な兵力による四国への多方面侵攻

1585年6月、秀吉は自らが出陣する代わりに、弟の羽柴秀長を総大将、副将に羽柴秀次を据え、総勢10万とも言われる大軍を四国へ派遣した。この軍勢は三方向から四国へ攻め込む立体的な包囲作戦をとった。

淡路島から阿波(徳島県)へは羽柴秀長・秀次の本隊が、播磨から讃岐(香川県)へは黒田官兵衛や蜂須賀正勝らの軍勢が侵攻した。さらに、秀吉と同盟を結んでいた安芸(広島県)の毛利輝元も、小早川隆景や吉川元春らを将とする軍を伊予(愛知県)へ派遣し、長宗我部側の諸城を次々と攻略した。長宗我部軍は各地で奮戦したものの、動員兵力と組織力で圧倒する羽柴軍の前に次第に追い詰められ、阿波の要衝である一宮城(いちのみやじょう)が包囲されるに至って、元親は降伏を余儀なくされた。

戦後処理と豊臣政権における歴史的意義

同年7月に結ばれた和議により、長宗我部元親は土佐一国のみの領有を許され(減封)、阿波・讃岐・伊予の3カ国は没収された。没収された地域は豊臣政権を支える大名たちに分割配置され、阿波は蜂須賀家政、讃岐は仙石秀久、伊予は小早川隆景らに与えられた。これにより四国は豊臣政権の強固な支配下へと組み込まれることとなった。

この四国平定は、秀吉が同年に就任した関白の権威を背景に行われた。秀吉は私闘を禁じる「惣無事令(そうぶじれい)」を全国の大名に発令していくが、四国平定はその軍事的な実力行使の初例となった。この成功は、翌1586年から始まる九州平定(島津氏の降伏)、さらには1590年の小田原征伐(後北条氏の滅亡)へとつながる、天下統一プロセスの重要な記念碑的出来事であった。

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最終更新:2026年6月17日 @ 23:49

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