耳塚(鼻塚) (みみづか/はなづか)
【概説】
安土桃山時代の朝鮮出兵(文禄・慶長の役)の際、戦功の証として朝鮮半島から持ち帰られた人々の耳や鼻を埋葬した塚。豊臣秀吉の命によって京都の方広寺(現在の大仏正面通)の門前に築かれ、仏教儀礼による供養が行われた。戦乱の悲惨さと、秀吉の侵略戦争の実態を今に伝える歴史的遺跡である。
戦功の証としての「鼻斬り」と恩賞システム
豊臣秀吉による2度目の朝鮮出兵である慶長の役(1597〜1598年)において、日本の武将たちは凄惨な「鼻斬り(耳斬り)」を行った。従来の日本の合戦では、敵を討ち取った証拠として「首級(首)」を持ち帰るのが一般的であったが、海を渡る朝鮮出兵においては、首級を日本まで輸送することが極めて困難であった。そのため、かさばらない「鼻」や「耳」を削ぎ落とし、塩漬けや酢漬けにして目録とともに日本へ送る手法がとられた。
秀吉は武将たちに対し、あらかじめ定められたノルマ(「鼻請取状」などによる管理)を課し、それに応じて領地などの恩賞を与えた。この冷酷な恩賞システムは、戦功を焦る将兵による過剰な暴力を誘発した。結果として、戦う兵士のみならず、抵抗力のない婦女子を含む一般の朝鮮軍民の鼻までが大量に切り取られ、日本へと送られる悲劇を生むこととなった。
塚の造営と「耳塚」への改称
日本に送られた膨大な数の鼻や耳は、検分が行われた後、1597年(慶長2年)に秀吉の命によって京都の方広寺大仏殿(現在の豊国神社近隣)の門前に埋められた。これが「鼻塚」の始まりである。秀吉は、自らの敵であっても死後は成仏させるという仏教的慈悲の精神(または自身のカタルシスや権威誇示)に基づき、京都五山の僧侶を集めて大規模な千僧供養を営ませ、この塚を築かせた。
造営当初は「鼻塚」と呼ばれていたが、江戸時代に入ると、儒学者の林羅山らが「鼻を削ぐ」という行為の野蛮さを忌避し、より穏和な表現である「耳塚」と呼び変えたとされる。この呼称が定着し、現在に至るまで「耳塚」の名で広く知られている。
歴史的意義と現代における課題
耳塚は、豊臣政権による東アジア侵略の直接的な物証であり、戦争の悲惨さと不条理を象徴する遺跡である。江戸時代の朝鮮使節(朝鮮通信使)も、この地を訪れて哀悼の意を捧げ、秀吉の蛮行を記録に留めている。
明治時代以降、日本のナショナリズムの高まりの中で一時的に軍国主義の象徴と見なされる時期もあったが、第二次世界大戦後は、日韓・日朝の悲痛な歴史を反省し、平和を希求するための反戦の象徴として語り継がれている。現在も、京都の有志や韓国の市民団体などによって定期的に供養祭が営まれており、歴史認識をめぐる対話の場としても重要な意味を持ち続けている。