智積院襖絵 (ちしゃくいんふすまえ)
【概説】
安土桃山時代を代表する絵師・長谷川等伯とその一門が描いた金碧障壁画群。豊臣秀吉が夭折した愛児・鶴松の菩提を弔うために建立した祥雲寺(現在の智積院)を飾った、同時代を代表する豪華絢爛な文化遺産である。
豊臣秀吉の哀悼と祥雲寺建立の背景
智積院襖絵(国宝)は、もともと最初から智積院のために描かれたものではなかった。その起源は、天下人となった豊臣秀吉の私的な悲劇と深く結びついている。1591(天正19)年、秀吉が溺愛していた側室・淀殿との間の長男である鶴松(棄丸)が、わずか3歳で病没した。悲嘆に暮れた秀吉は、その菩提を弔うため、京都の東山に総門や壮大な伽藍を備えた壮麗な禅寺、祥雲寺(祥雲禅寺)を建立した。この寺院の内部を飾る障壁画の制作を命じられたのが、当時、画壇の絶対的権威であった狩野派に対抗して台頭しつつあった長谷川等伯とその一門であった。
後に豊臣氏が滅亡すると、徳川家康によって祥雲寺の旧地は紀州根来寺の塔頭であった智積院に与えられ、これに伴って祥雲寺に遺されていた等伯らの障壁画も智積院の所有となり、今日まで「智積院襖絵」として伝えられることとなったのである。
等伯と久蔵の競演――「楓図」と「桜図」の魅力
智積院襖絵の最大の見どころは、長谷川等伯の手による「楓図(かえでず)」と、その長男である長谷川久蔵が描いたとされる「桜図(さくらず)」の二大傑作である。これらは金箔をふんだんに貼りつめた背景(金泥・金箔)に、極彩色で自然の生命力を力強く描き出す金碧障壁画(きんぺきしょうへきが)の到達点を示している。
久蔵の作とされる「桜図」は、満開に咲き誇る八重桜を描いたものである。白い花弁の部分には、貝殻を粉末にした胡粉(ごふん)を厚く盛り上げる技法が用いられており、視覚的な立体感と絢爛たる華やかさを生み出している。春の陽光を浴びる桜の優美さと若々しさが、20代半ばであった久蔵の瑞々しい感性によって表現されている。
一方、等伯の作とされる「楓図」は、画面中央に巨大な楓の幹を大胆に配置し、引き締まった画面構成の中に、色鮮やかに紅葉した木の葉や秋草を描き出している。激しく屈曲する大木の描写からは、自然の持つ強靭な生命力が伝わってくる。若き久蔵の静的な美しさに対し、ベテランである等伯の動的で力強い表現は実に見事な対比をなしており、親子による美の競演が繰り広げられた。
桃山画壇の覇権争いと長谷川派の悲劇
この障壁画の制作は、当時の美術史上においても極めて重要な意味を持っていた。安土桃山時代の画壇は、織田信長や豊臣秀吉の寵愛を一手に引き受けていた狩野永徳率いる狩野派が圧倒的な覇権を握っていた。能登国(現在の石川県)出身の長谷川等伯は、千利休らの茶人や本法寺などの日蓮宗ネットワークを通じて都での足がかりを築き、狩野派の独占に対抗しようと画策していた。
1590(天正18)年にライバルであった狩野永徳が急逝したことは、等伯率いる長谷川派にとって千載一遇の好機となった。秀吉から祥雲寺障壁画の制作という国家規模の一大プロジェクトを勝ち取ったことは、長谷川派が名実ともに狩野派と肩を並べる一流の画派として認められた証であった。
しかし、この栄光の絶頂において悲劇が等伯を襲う。祥雲寺の落成後まもない1593(文禄2)年、等伯の後継者として類稀なる才能を発揮し、「桜図」を描き上げたばかりの長男・久蔵が、わずか26歳で夭折してしまったのである。一説にはその才能を恐れた狩野派による毒殺説まで囁かれるほどの突然の死であった。最愛の息子であり、一門の未来を担うはずだった右腕を失った等伯の悲痛な落胆は計り知れず、この事件は等伯のその後の作風に、静寂と精神性を極めた水墨画(国宝「松林図屏風」など)へと向かわせる大きな転機となった。