有田焼(伊万里焼)
【概説】
豊臣秀吉の朝鮮出兵を契機に来日した朝鮮人陶工・李参平らによって、肥前国(佐賀県)有田で創始された日本初の磁器。最寄りの伊万里港から国内外へと出荷されたため伊万里焼とも呼ばれ、後に独自の赤絵技術を確立して世界的な名声を得た。
日本における磁器生産の幕開け
安土桃山時代の末期に豊臣秀吉が引き起こした二度の朝鮮出兵(文禄・慶長の役)は、政治的・軍事的には大きな傷痕を残したが、文化・産業面では日本に決定的な変化をもたらした。出兵した西国大名たちは撤退に際して多数の朝鮮人陶工を日本へ連れ帰り、これが九州各地で新たな陶業が勃興する契機となったことから、この戦争は別名「やきもの戦争」とも称される。
佐賀藩の祖となる鍋島直茂に同行して渡来した朝鮮人陶工の李参平(りさんぺい/日本名:金ヶ江三兵衛)らは、1616年(元和2年)頃、肥前国西松浦郡有田の泉山で良質な磁石(陶石)を発見した。彼らが有田の天狗谷窯で日本初となる白磁を焼き上げたのが、有田焼の創始とされている。それまで日本のやきものは土を原料とする陶器のみであったが、高温で焼成される硬質で透光性のある美しい「磁器」の生産技術が、ここについに確立されたのである。
色絵技術の確立と柿右衛門様式
初期の有田焼(初期伊万里)は、白地に青い顔料(呉須)で文様を描く「染付(そめつけ)」が主流であった。しかし、1640年代に入ると技術革新が進み、初代・酒井田柿右衛門(さかいだかきえもん)らが中国の手法を取り入れて、日本初となる赤絵(色絵)の技法を完成させた。
特に彼が確立した柿右衛門様式は、有田焼の芸術性を飛躍的に高めることとなった。「濁手(にごしで)」と呼ばれる温かみのある乳白色の素地に、赤・緑・黄・青などの鮮やかな絵具で花鳥風月を左右非対称に描き、日本的な余白の美を最大限に生かしたこの様式は、後の伊万里焼の代表的な意匠として定着していく。
「伊万里焼」の名と世界市場への進出
有田で生産された磁器は、最寄りの伊万里港から船積みされて国内各地へと運ばれたため、市場や消費地では生産地ではなく積出港の名を取って伊万里焼という呼称が定着した。
この有田焼(伊万里焼)が世界史的な脚光を浴びたのは17世紀中頃のことである。当時、中国大陸では明から清への王朝交替に伴う大規模な動乱(明清交替)が起こり、世界最大の磁器供給源であった景徳鎮窯からの輸出が激減した。これに直面したオランダ東インド会社(VOC)は、中国産磁器の代替品として有田の磁器に目をつけ、大量に買い付けてヨーロッパへと輸出したのである。
ヨーロッパ陶磁器文化への絶大な影響
海を渡った伊万里焼(後に「古伊万里」と称される)は、その純白の素地と色鮮やかな絵付けでヨーロッパの王侯貴族を熱狂させ、宮殿を飾る最高級の美術品として珍重された。この空前の流行は、ヨーロッパにおける磁器の国産化への情熱を掻き立て、18世紀初頭に誕生したドイツのマイセン窯をはじめとする西洋の陶磁器生産に絶大な影響を与えた。
安土桃山時代末期の朝鮮半島からの技術伝播に始まり、江戸時代の鎖国下にあっても長崎のオランダ商館を通じて世界中を魅了した有田焼(伊万里焼)は、単なる一地方の伝統工芸にとどまらず、近世における東アジアの技術移転と東西の文化交流を象徴する、極めて重要な歴史的産物である。