光明天皇

足利尊氏が京都を制圧したのち、後醍醐天皇を退位させて新たに即位させた持明院統の天皇は誰か?
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重要度
★★

光明天皇 (こうみょうてんのう)

1322年〜1380年

【概説】
南北朝時代における北朝の第2代天皇(実質的な初代)。足利尊氏が建武政権に叛旗を翻して京都を制圧した際、後醍醐天皇に代わる新たな君主として擁立された持明院統の天皇である。その即位により、京都の北朝と吉野の南朝が並立する南北朝分裂が決定的なものとなった。

足利尊氏の京都占領と北朝の創設

鎌倉幕府滅亡後の建武の新政において、後醍醐天皇は皇位継承における「持明院統」と「大覚寺統」の交替原則(両統迭立)を否定し、自身の系統(大覚寺統)による親政を進めた。これに不満を抱いた持明院統は、足利尊氏と結託することとなる。

1336年(延元元年/建武3年)、東上した足利尊氏が湊川の戦いで新田義貞や楠木正成らの宮方を破って京都を占領すると、後醍醐天皇は比叡山へ逃れた。尊氏は持明院統の光厳上皇から院宣(天皇の父・上皇の命令書)を得る形で、その弟である豊仁親王を擁立した。これが光明天皇である。光厳上皇はかつて鎌倉幕府によって擁立されながらも、幕府滅亡とともに廃位されていたため、実質的な北朝の朝廷はこの光明天皇の即位を以て始まったとされる。

「三種の神器」をめぐる正統性の対立

光明天皇の即位に際し、比叡山にいた後醍醐天皇との間で和議が結ばれ、皇位の象徴である三種の神器が光明天皇側へと引き渡された。しかし、その後、京都を脱出して大和国の吉野(奈良県)へと逃れた後醍醐天皇は、「北朝に渡した神器は偽物であり、本物は自分が持っている」と主張し、自身の即位の正当性と皇位の継続を宣言した。

この結果、京都の光明天皇(北朝)と吉野の後醍醐天皇(南朝)という2つの朝廷が並立する南北朝時代が本格的に幕を開けた。光明天皇をはじめとする初期の北朝天皇は、常にこの「神器なき即位」という正統性の弱みを抱えており、自らの権威を担保するために室町幕府(足利将軍家)の軍事力と政治的支援に深く依存せざるを得なかった。

観応の擾乱と「正平一統」における流転

光明天皇は1348年(貞和4年)に、光厳上皇の嫡男である崇光天皇に皇位を譲り、自らは上皇となった。しかし、室町幕府の内部対立である観応の擾乱が激化すると、皇室もこの政争に深く巻き込まれることとなる。

1351年(観応2年)、政敵である足利直義に対抗するため、足利尊氏は一時的に南朝と妥協する講和を結んだ。これを正平一統と呼ぶ。この一統の条件として、京都の北朝(光明天皇や崇光天皇ら)の皇位や元号は一時的に廃止され、南朝への統合が図られた。翌年、南朝軍が京都に侵攻して一統が破れると、撤退する南朝軍によって光厳・光明・崇光の3上皇、および皇太子の直仁親王は拉致され、南朝の本拠地である吉野(のちに賀名生など)へ連れ去られた。光明上皇らは約3年間にわたる幽閉生活を余儀なくされ、1355年(文和4年)にようやく京都へ帰還した。帰国後は出家して禅宗に帰依し、波乱に満ちた生涯を静かに閉じた。

観応の擾乱 – 室町幕府を二つに裂いた足利尊氏・直義兄弟の戦い (中公新書 2443)

足利尊氏と直義の兄弟対立が室町幕府を根底から揺るがし、南北朝の動乱を決定づけた歴史の転換点に迫る一冊。

北朝の天皇-「室町幕府に翻弄された皇統」の実像 (中公新書)

室町幕府の権威に翻弄されながらも存続した北朝天皇の実像を解き明かし、中世の皇室の在り方へ迫る歴史書。

最終更新:2026年6月17日 @ 23:49

日本史一問一答(ランダム)

Q. 室町幕府における「侍所」のトップ(長官)の役職名を何というか?
Q. 上杉氏が治め、戊辰戦争では奥羽越列藩同盟に加わって新政府軍と戦い、のちに降伏した出羽国の藩はどこか?
Q. 有力な貴族が、大学寮で学ぶ一族の子弟のために設立した寄宿舎のような施設を総称して何というか。