土岐康行の乱 (ときやすゆきのらん)
【概説】
室町幕府3代将軍・足利義満が、有力守護大名である土岐氏の勢力を削減するために引き起こした討伐事件。美濃・尾張・伊勢の守護を兼ねて強大な勢力を誇った土岐康行を挑発・排斥することで、将軍権力の強化を狙った幕府初期の重要事件である。
背景:足利義満の守護大名抑制策と土岐氏の存在
南北朝合一や室町幕府の組織整備を進めていた3代将軍足利義満は、将軍家を凌ぐほどの広大な領国(分国)を持つ守護大名の存在を、幕権強化の障壁とみなしていた。特に美濃(岐阜県南部)を本拠地とし、尾張・伊勢を合わせた3カ国の守護を兼ねる土岐氏は、軍事的な要衝を抑える強大な勢力であり、義満にとって最大の警戒対象の一つであった。
1387年、長年にわたり土岐氏を率いた有力者・土岐頼康が死去すると、その跡を甥の土岐康行が継承した。義満はこの代替わりの混乱期に乗じ、土岐氏の勢力を分割・弱体化させるための工作を開始する。
経過:惣領家と一族の対立と将軍の介入
足利義満は、土岐康行の従兄弟であり、将軍の近臣として仕えていた土岐満貞(尾張守護代)を抱き込み、康行に対する内紛を誘発させた。満貞は義満の意を受け、惣領である康行が謀反を企てていると讒言(虚偽の告発)を行った。さらに康行が領国美濃において満貞の軍勢を攻撃せざるを得ない状況へと追い込んだ。
これを待っていた義満は、康行が将軍の命令に従わない「叛逆者」であるとして、1390年(明徳元年)に斯波義将らを総大将とする討伐軍を美濃へ派遣した。康行は抗戦したものの敗北して没落し、土岐氏の領国は美濃・尾張・伊勢の3カ国に分割されることとなった。康行に代わって一族の土岐頼益が美濃守護に据えられ、土岐氏の勢力は大きく減退した。
歴史的意義:中央集権化への布石と守護討伐の連鎖
土岐康行の乱は、単なる地方守護の一族争いではなく、足利義満による将軍専制体制(絶対権力)の確立に向けた最初期の計画的守護排斥事件としての意義を持つ。本件での成功により自信を深めた義満は、この翌年に山名氏を挑発して「明徳の乱(1391年)」を引き起こして山名氏の勢力を激減させ、さらに後年には「応永の乱(1399年)」によって大内義弘を滅ぼした。
このように、土岐康行の乱は、室町幕府が「有力守護の連合政権」から「将軍専制」へと移行する過程において、一連の守護大名弱体化政策のスタートラインとなった重要な事件である。