管領 (かんれい)
【概説】
室町幕府において、将軍に次いで政務を統轄し、諸将の指揮を行った最高役職。足利一門である斯波氏、細川氏、畠山氏の有力守護大名が交代で就任し、室町時代の幕府政治において中核的な役割を果たした。
「執事」から「管領」への成立過程
室町幕府の初期、将軍の補佐役は鎌倉幕府の家政機関の長に倣い「執事(しつじ)」と呼ばれていた。足利尊氏の右腕であった高師直(こうのもろなお)などがその代表である。しかし、観応の擾乱などの内乱を経て幕府の体制が徐々に整えられるなかで、将軍の権威を高めつつ有力守護を統制する必要が生じた。貞治元年(1362年)に斯波義将(しばよしゆき)が就任した頃から、次第に「執事」に代わって「管領」という呼称が定着したとされる。「天下を管領する」という言葉に由来し、幕府の最高責任者としての地位が明確化されたのである。
三管領の確立と職務権限
管領の制度が本格的に確立したのは、第3代将軍・足利義満の時代である。義満は有力守護大名の勢力を均衡させるため、足利氏の一門であり強力な軍事力を持つ斯波氏(しばし)、細川氏(ほそかわし)、畠山氏(はたけやまし)の3家から交代で管領を任命する慣行を作り上げた。これらはのちに「三管領(さんかんれい)」と称された。
管領の主な職務は、将軍の命令書である御内書に管領下知状などの副状(そえじょう)を添えて諸国に伝達することや、幕府の政務全般の統括、評定衆や引付衆の指揮、さらには諸国の守護大名に対する軍事動員など多岐にわたった。また、将軍の元服や任官などの重要な儀式においても中心的な役割を担った。
幕政の主導と将軍権力との関係
室町幕府は、強力な将軍の専制体制というよりも、将軍と有力守護大名たちによる「連合政権」としての性格が強かった。管領はその守護大名たちの筆頭として、将軍の権力を補完する一方で、専制的な将軍に対しては合議によってその権力行使を牽制する役割も持っていた。第6代将軍・足利義教のように自ら権力を振るった将軍の時期には管領の権限は相対的に低下したが、幼少や病弱な将軍の代には管領が実質的な幕政の指導者として振る舞い、政治の安定を保つための重要な調整機能を果たした。
応仁の乱後の変質と細川氏の独占
室町時代中期に入ると、管領家の内実にも変化が生じた。斯波氏や畠山氏の内部で家督継承をめぐる激しいお家騒動が勃発し、これが第8代将軍・足利義政の継嗣問題と絡み合って、応仁元年(1467年)に応仁の乱を引き起こすこととなる。
この未曾有の大乱を経て斯波氏と畠山氏が没落・弱体化すると、三管領体制は崩壊し、代わって細川氏(細川京兆家)が管領職を事実上独占するようになった。特に明応2年(1493年)、管領・細川政元(ほそかわまさもと)が第10代将軍・足利義材(義稙)を武力で追放した明応の政変以降は、管領が将軍の廃立すら意のままに行う専権体制(細川政権)が打ち立てられた。
戦国期における形骸化と消滅
しかし、細川氏の専権も長くは続かなかった。細川政元の暗殺(永正の錯乱)を契機に細川家中でも激しい内紛が起こり、その家臣であった三好氏(三好長慶など)が下剋上によって実権を握るようになると、管領職の権威は完全に失墜した。戦国時代後期には、管領に就任する者も途絶えがちとなり、役職としては有名無実化していった。最終的に天正元年(1573年)、織田信長によって第15代将軍・足利義昭が京都から追放され、室町幕府が事実上の滅亡を迎えたことで、管領という役職も歴史の表舞台から完全に姿を消したのである。