土民

室町時代に徳政一揆などを起こした、農民や馬借などの民衆(一般百姓)を当時の言葉で何というか?
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重要度
★★

土民 (どみん)

室町時代

【概説】
室町時代において、土一揆などを組織して社会秩序に抵抗した、惣村の農民や在地民衆の総称。本来は「土地に定住する民」を指す言葉であったが、中世後期には自立性を強めた名主・百姓層や馬借などの運送業者、在地土豪を含む広範な民衆勢力を指す歴史用語として用いられる。

「土民」の階層性と社会背景

「土民」という言葉は、文字通りには「その土地に土着している民」を意味するが、日本中世史においては特定の社会階層や政治的実体を示す。彼らの中心を担ったのは、鎌倉時代末期から室町時代にかけて畿内を中心に形成された自治的組織である惣村(惣)の構成員(惣百姓・惣民)であった。しかし、その実態は単なる零細農民にとどまらず、農村を実質的に指導する名主層や、武士化しつつあった地侍(土豪)、さらには交通・物流の要衝で活躍した馬借や車借といった運送業者まで幅広く含んでいた。

14世紀後半から15世紀にかけて、農業技術の向上(二毛作の普及や肥料の改良)や貨幣経済の浸透に伴い、これらの在地民衆は経済的な自立度を高めていった。彼らは寄合(会合)を開き、独自のルールである「惣掟」を定め、共同体としての連帯感を強めていった。この民衆の成長こそが、「土民」が歴史の表舞台に主体的な勢力として登場する基盤となった。

土一揆の蜂起と政治的台頭

「土民」が幕府や守護などの支配階級に対して組織的な抵抗運動を行ったのが土一揆(徳政一揆)である。その画期となったのが、1428年(正長元年)に発生した正長の土一揆であった。近江の馬借の蜂起を契機に、京都周辺の「土民」たちが「徳政(借金の帳消し)」を求めて一斉に蜂起し、高利貸しを営む土倉や酒屋、寺院などを襲撃した。

この蜂起において、土民たちは単に暴動を起こしただけでなく、実力行使によって借用書を破棄させ、事実上の「私徳政」を勝ち取った。さらに、1441年(嘉吉元年)の嘉吉の土一揆では、数万人規模に膨れ上がった「土民」が京都を包囲し、室町幕府に対して公式な徳政令の発布を余儀なくさせた。これは、それまで支配されるだけの存在であった民衆(土民)が、国家の政策を左右する政治的・軍事的な実力組織へと成長したことを示している。

中世社会における「土民」の歴史的意義

歴史的に見て、「土民」の台頭は古代的な支配秩序の崩壊と、中世的な民衆運動の成立を象徴している。彼らは単に生活の困窮から暴動を起こしたのではなく、一揆の「一味神水(神に誓って一致団結すること)」の儀礼を通じて平等の関係を結び、独自の正義(「徳政」などの社会的公正)の実現を目指して行動した。この主体的な意思を持つ「中世民衆」の誕生は、のちの加賀の一向一揆や、戦国時代の惣国一揆へとつながる自治の潮流を生み出した。

やがて戦国時代に入ると、これら「土民」の軍事力や組織力は、在地支配の安定を狙う戦国大名によって家臣団へと組み込まれていく(兵農分離への端緒)。あるいは、大名の強力な権力によってその自立性が規制・解体されていくことになるが、室町期において彼らが示したエネルギーは、日本の社会構造を大きく変革する原動力であった。

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日本中世の村と百姓

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最終更新:2026年6月17日 @ 23:49

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