畠山義就 (はたけやまよしひろ)
【概説】
室町時代中・後期の守護大名。三管領家の一つである畠山氏の当主・畠山持国の実子。同族の畠山政長と家督を巡って激しく対立し、細川勝元や山名宗全ら幕府有力者の政争とも連動して、応仁の乱を引き起こす直接の引き金となった人物である。
畠山氏の家督争いと「御霊合戦」
畠山氏の家督を巡る混乱は、畠山持国に実子が生まれなかったため、甥の弥三郎(後に弟の政久、さらにその弟の畠山政長へ継承される系統)を養子に迎えたことに始まる。しかしその後、実子である畠山義就が誕生したことで、持国は義就への家督継承を強行した。これに反発する家臣団や、将軍家・他有力守護大名の思惑が絡み合い、畠山氏は二派に分裂して激しく対立することとなった。
8代将軍足利義政の度重なる家督介入や、管領の細川勝元(政長を支持)、西国の大名である山名宗全(義就を支持)らの権力闘争と結びついた結果、文正2年(1467年)1月、京都の上御霊神社にて両軍が激突する御霊合戦が発生した。この私闘において将軍・義政が介入を禁じた結果、義就が政長を破り、勝元・宗全両陣営の本格的な軍事衝突、すなわち応仁の乱へと発展していった。
応仁の乱におけるゲリラ戦と不屈の闘争
応仁の乱が勃発すると、義就は山名宗全率いる西軍の主力武将として活躍した。義就は優れた軍事才覚を持っており、京都での市街戦のみならず、自身の守護国であった河内国や大和国へと転戦し、東軍の畠山政長を幾度も圧倒した。文明9年(1477年)に足利義視や守護大名たちの妥協によって応仁の乱が事実上終息し、西軍が解散した後も、義就はこれに服さず河内国へ下向して独自の戦闘を継続した。
幕府は義就を「治罰の対象(朝敵・幕敵)」として追討令を出したが、義就は現地の国人領主層を巧みに組織化し、政長や幕府軍の攻勢をことごとく退けた。結果として義就は河内・大和における実質的な支配権を維持し続け、室町幕府の守護補任権などの権威を著しく失墜させることとなった。
地域社会への衝撃と「山城の国一揆」への連動
義就と政長による四半世紀に及ぶ泥沼の私闘は、戦場となった畿内の民衆や国人たちに多大な犠牲を強いた。特に南山城地域(現在の京都府南部)は、両軍の軍勢が頻繁に侵入し、略奪や放火を繰り返したため荒廃した。
この絶え間ない戦乱に対し、ついに文明17年(1485年)、南山城の国人や土豪、農民らが結集して山城の国一揆を起こした。彼らは「畠山両軍の退去」「守護による新関所の廃止」「寺社本所領の返還」などを要求し、義就・政長双方の軍勢を領内から完全に排除することに成功した。義就らの執念深い権力闘争は、結果として既存の支配秩序を崩壊させ、地域住民が自立的に統治を行うという、戦国時代の「下剋上」を象徴する動きを誘発する一因となったのである。