肥富 (こいずみ)
【概説】
室町時代初期に活躍した博多の商人。室町幕府第3代将軍・足利義満によって僧の祖阿とともに明(中国)へと派遣され、日明貿易(勘合貿易)の創始に決定的な役割を果たした対外実務家である。
足利義満の遣明使節と肥富の抜擢
14世紀末に南北朝合一を遂げ、武家政権の頂点に立った第3代将軍・足利義満は、明との正式な国交の樹立と、そこから得られる莫大な経済的利益に着目した。当時、東シナ海では倭寇(前期倭寇)と呼ばれる海上勢力が活発に活動しており、これに苦しむ明の洪武帝(太祖)は、日本に対して倭寇の禁圧を強く要求していた。また、明は民間貿易を厳しく制限する海禁政策を敷いていたため、貿易を行うためには皇帝への朝貢という形式をとる必要があった。
このような外交交渉を進めるにあたり、義満は1401年(応永8年)に明への最初の正式な使節を派遣した。この際、正使として選ばれたのが、義満の側近であった禅僧の祖阿(そあ)であり、副使として同行したのが博多の豪商であった肥富である。肥富は、古くから海外交易の拠点であった博多において、東アジアの情勢や航海ルート、さらには対外交易の実務に深く通じていた。義満は、外交儀礼を担う禅僧と、貿易実務を担う商人を組み合わせることで、明との確実な国交樹立を図ったのである。
日明貿易(勘合貿易)の成立と肥富の歴史的意義
祖阿と肥富らの一行は明の首都・南京へと渡り、第2代皇帝である恵帝(建文帝)に謁見した。このとき義満が送った国書は、自らを「日本国准三后源道義」と称し、明の皇帝に対して臣下の礼をとる朝貢の形式をとっていた。明側は日本の表敬と倭寇の取り締まりへの協力を歓迎し、翌1402年(応永9年)に明の使節が日本へ派遣された。この使節により、義満は「日本国王」に冊封され、日本は明を頂点とする冊封体制(華夷秩序)に組み込まれることとなった。
肥富がもたらした明側の情報や実務的な交渉の成果は、1404年(応永11年)から本格化する勘合貿易(日明貿易)の土台となった。この貿易は幕府に莫大な財政的利益をもたらし、室町時代の北山文化などの華麗な貴族・禅宗文化を支える資金源となった。肥富の活動は、一介の商人が国家規模の外交・経済交渉において極めて重要な役割を果たし得ることを示した、日本対外関係史上における先駆的な事例である。