日本国王臣源 (にほんこくおうしんげん)
【概説】
室町幕府第3代将軍の足利義満が、明の皇帝に送った公式国書(表)で用いた自署。明の冊封体制(国際秩序)に自ら加わり、明皇帝に対して「臣下」として服属する姿勢を明確に示した外交上の名義である。
冊封体制への参入と「臣源」の含意
1401年(応永8年)、京都の相国寺を実質的な政庁としていた足利義満は、博多の商人である肥富(こいずみ)や禅僧の祖阿(そあ)らを明に派遣した。この際、明の建文帝に宛てた国書(表)に署名されたのが「日本国王臣源」である。「臣」は明皇帝に対する臣下としての服属を表し、「源」は源氏の長者たる足利氏の本姓を意味している。
明の伝統的な外交姿勢である「海禁・朝貢」政策に適合するため、義満はあえて中華皇帝を中心とする東アジアの国際秩序(冊封体制)に自らを位置づけた。その結果、翌1402年に明の使者が来日し、義満を「日本国王」に冊封する旨の詔書をもたらした。これにより、日本と明との間の公式な国交が正式に樹立された。
朝貢外交がもたらした政治的・経済的メリット
義満が形式的な臣従というへりくだった態度をとった背景には、極めて実利的な意図が存在していた。経済的には、明との間で本格的な公式貿易である日明貿易(勘合貿易)を開始し、莫大な利益をもたらす中明交易の主導権を幕府が独占することを目指した。宋銭や明銭などの銅銭、絹織物、書画などの輸入は、室町幕府の強力な財政基盤となった。
政治的には、国内における将軍権力の絶対化という狙いがあった。東アジアにおける唯一の超大国である明から「日本国王」としての公認を得ることで、義満は国内の有力守護大名に対して圧倒的な優位性を誇示することができた。さらに、それは天皇・朝廷をも内包する独自の国家構想(天下人としての権力確立)を進める上での強力な外交的後ろ盾となった。
朝廷の反発と後世における評価の変遷
義満がとったこの外交姿勢は、国内において必ずしも無批判に受け入れられたわけではなかった。伝統的な対等外交や「神国」思想を重んじる公家衆からは、他国の君主に臣従する行為として「未曾有の怪異」などと激しく批判された。実際に、義満の没後に実権を握った第4代将軍の足利義持は、朝廷側の反発を考慮し、また武家としての自立を重んじて1411年に明との国交を一時断絶している。
のちに第6代将軍の足利義教によって貿易は再開されるものの、「日本国王臣源」という署名に象徴される実利優先の柔軟な(見方によっては主権を軽んじた)外交姿勢は、後世のナショナリズムの観点や、近世・近代の天皇親政論の立場から、しばしば国辱的な外交として批判の対象となった。しかし現代の歴史学においては、東アジアの国際環境を巧みに利用した極めて合理的かつ現実的な外交政策であったと評価されている。