陶晴賢 (すえはるかた)
【概説】
周防国・長門国などを支配した守護大名・大内氏の重臣。主君である大内義隆をクーデターによって自刃に追い込み、実質的に領国を支配した「下剋上」を象徴する戦国武将。後に台頭した毛利元就と対立し、厳島の戦いで敗死した。
「大寧寺の変」と下剋上の断行
陶晴賢(当初の名は陶隆房)が仕えた大内氏は、日明貿易(勘合貿易)の利権を握り、山口を中心に「西の京」と呼ばれるほどの繁栄を極めていた。しかし、出雲の尼子氏遠征(第一次月山富田城の戦い)に大敗したのち、当主の大内義隆は次第に軍事への関心を失い、和歌や学問などの公家文化に傾倒していく。これに伴い、大内氏の家中では、文雅を重んじる相良武任ら「文治派」が台頭し、軍事を担う「武断派」の陶隆房らとの対立が深まった。
危機感を強めた隆房は、1551(天文20)年、ついに挙兵して義隆の居館を襲撃した。義隆は長門国の大寧寺に逃れて自刃に追い込まれ、これにより西国随一の栄華を誇った大内氏は事実上の瓦解を迎える。この政変は大寧寺の変と呼ばれ、戦国期における極めて象徴的な「下剋上」の事例として知られる。
傀儡政権の樹立と領国支配
大内義隆を排した隆房は、大内氏の完全に滅亡させる道は選ばず、豊後の大友氏から義隆の甥にあたる大友晴英を新たな当主(大内義長)として擁立した。これは、保守的な領民や国人衆の反発を和らげるための「傀儡政権」の樹立であった。隆房自身も、新たな主君である義長から偏諱(一字)を賜り、名を「隆房」から晴賢へと改め、大内氏の実権を完全に掌握した。
しかし、主君を殺害して実権を奪った晴賢の強硬な統治手法は、領国内の国人領主たちに強い不信感を与えた。特に吉見氏などの反抗に手を焼くことになり、晴賢の支配基盤は決して強固なものではなかった。
「厳島の戦い」と毛利氏の台頭
晴賢の政権奪取を契機に、安芸国(現・広島県)の国人から勢力を急速に拡大しつつあった毛利元就との関係が悪化する。元就は大内氏内部の混乱を好機と捉え、挙兵して晴賢に宣戦を布告した。
1555(弘治元)年、両軍は瀬戸内海の要衝である厳島(宮島)で激突する(厳島の戦い)。晴賢は2万人を超える大軍を率いて厳島に上陸したが、これは元就による、狭隘な島嶼部に大軍を誘い込む緻密な罠(反間計や計略)であった。暴風雨の夜、毛利軍の奇襲攻撃および瀬戸内海の「村上水軍」の協力による水上戦に翻弄され、陶軍は壊滅的な大打撃を被った。退路を断たれた晴賢は、島内で自刃を余儀なくされた。
晴賢の敗死に伴い、名門・大内氏は完全に弱体化し、1557年には毛利氏の「防長経略」によって滅亡へと追いやられた。晴賢の野心と敗北は、結果として毛利氏が中国地方の覇者へと飛躍する最大の契機となり、西国の戦国勢力図を大きく塗り替えることとなった。