回礼使

高校日本史的重要度
★★

【参考リンク】
朝鮮通信使(Wikipedia)

回礼使 (かいれいし)

15世紀前半

【概説】
室町時代に、朝鮮(李氏朝鮮)から日本(室町幕府)へと派遣された外交使節。1419年に起きた応永の外寇(己亥東征)ののち、悪化した日朝関係の修復や、通交の再開を主たる目的として派遣された。朝鮮側における対日外交体制の整備と、のちの朝鮮通信使の先駆けとなった重要な使節である。

応永の外寇と日朝関係の緊迫

1392年に成立した朝鮮王朝(李氏朝鮮)は、当時猛威を振るっていた倭寇(前期倭寇)の取り締まりを室町幕府や対馬の守護・宗氏に求めていた。しかし、倭寇の活動が収まらないことに業を煮やした朝鮮は、1419(応永26)年、倭寇の根拠地とみなした対馬を大船団で急襲した。これが応永の外寇である。

この軍事行動により日朝関係は一挙に緊迫した。4代将軍足利義持は、この襲撃を明(中国)による日本侵攻の前触れではないかと強く警戒し、幕府と朝鮮との緊張は極限に達した。両国は一触即発の危機に陥ったが、対馬の宗氏を介した仲介や、双方に全面戦争を避ける意図があったことから、対話による関係修復が模索されることとなった。

宋希璟の派遣と『老松堂日本行録』

関係改善に向け、1420年に朝鮮から最初の回礼使として派遣されたのが、科挙出身の官僚である宋希璟(そうきけい)であった。宋希璟は京都で将軍・足利義持らと謁見し、朝鮮側の意図を説明して誤解を解くとともに、平和的な通交関係の維持を合意することに成功した。

宋希璟が日本滞在中の見聞を記した旅日記『老松堂日本行録(ろうしょうどうにほんこうろく)』は、室町時代中期の日本の政治状況や社会の世相、文化、さらには対馬から瀬戸内海を経て京都に至るルートの様子を詳細に伝える極めて貴重な歴史史料となっている。

日朝貿易の安定化と歴史的意義

回礼使の派遣による関係修復の結果、日朝間の公的な通交(日朝貿易)は再開・維持されることとなった。朝鮮側は、対馬の宗氏に対して交易上の特権を与えるなどして倭寇の帰順(懐柔策)を進め、日朝貿易は安定的かつ秩序あるものへと制度化されていった。

この時期に整備された日朝間の外交・貿易の枠組みや、使節派遣の先例は、一時的な断絶(文禄・慶長の役など)を経つつも、江戸時代における将軍の代替わりごとに派遣された「朝鮮通信使」の原型として受け継がれていくこととなった。

最終更新:
2026年7月1日 @ 12:55

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