尚巴志 (しょうはし)
【概説】
15世紀前半に沖縄本島を統一し、最初の琉球統一王朝である第一尚氏王統を確立した琉球の国王。父の尚思紹とともに中山王として勢力を拡大し、1429年に北山・南山を滅ぼして三山時代を終結させた。明との朝貢貿易を推進し、首里城を整備するなど、琉球王国の基礎を築き上げた人物である。
琉球の三山時代と尚巴志の台頭
14世紀の琉球(沖縄本島)では、各地の按司(あじ)と呼ばれる豪族たちが抗争を繰り広げ、やがて中山(ちゅうざん)、南山(なんざん・山南)、北山(ほくざん・山北)の三つの勢力に集約される「三山時代」を迎えていた。尚巴志は、南山の佐敷(現在の沖縄県南城市)を拠点とする小按司であった父・思紹(ししょう)の子として生まれた。
彼は若くして優れた軍事的才能と政治的センスを発揮し、農耕や鉄の製錬などを通じて地域を豊かにしつつ勢力を拡大した。1406年、尚巴志は中山王の武寧を攻撃して滅亡させ、父の思紹を新たな中山王に即位させた。これにより、尚巴志は中山の実質的な指導者として琉球統一への強力な足場を固めたのである。
琉球王国の統一(1429年)
中山の覇権を握った尚巴志は、次なる目標として島内の完全統一を目指した。1416年(一説には1419年)、難攻不落とされた今帰仁城(なきじんぐすく)に拠る北山王の攀安知(はんあんち)を滅ぼし、次男を北山監守として配置して北部地域を平定した。
その後、1421年に父・思紹が没すると自ら中山王に即位した。そして1429年、南山王の他魯毎(たるみい)を滅ぼして、ついに沖縄本島の統一を達成した。これが琉球王国の成立であり、尚巴志とその一族の王統は、のちの第二尚氏と区別して「第一尚氏王統」と呼ばれている。
朝貢貿易と東アジア海域世界における琉球
尚巴志の統一事業を力強く支えた最大の要因は、当時の東アジアを主導していた明帝国との朝貢貿易である。14世紀後半に成立した明は厳格な海禁政策をとっており、周辺諸国には朝貢という形式でのみ公式な貿易を認めていた。尚巴志は明から「琉球国中山王」として冊封(さくほう)を受け、「尚」という姓を賜っている。
彼は明の強力な政治的権威を背景に島内の敵対勢力を圧倒するとともに、明から入手した陶磁器や生糸などの特産品を、日本(室町幕府)や朝鮮、さらに東南アジア諸国に転売する中継貿易(なかつぎぼうえき)を大々的に展開した。これにより琉球は、東シナ海の交易ネットワークを結ぶ「万国津梁(ばんこくしんりょう・世界の架け橋)」と呼ばれる経済的繁栄の基礎を築いた。
国家体制の整備と首里城の建設
島内の統一を果たした尚巴志は、王権の強化と国家体制の整備に着手した。その象徴的事業が首里城(現在の那覇市)の拡張・整備である。彼は首里を王都と定め、中国風の建築様式を取り入れた壮麗な城郭を築城した。
また、眼下の那覇港を国際貿易港として整備し、明から渡来した人々(久米三十六姓)を久米村に住まわせて保護・重用し、外交文書の作成や航海術の指導に当たらせた。国内的には、各地の有力な按司を首里周辺に集住させることで地方の反乱を防ぐとともに、中央集権化を推し進めた。
第一尚氏王統のその後と歴史的意義
尚巴志の没後、第一尚氏王統は王位継承をめぐる内紛が絶えず、1469年に重臣の金丸(のちの尚円王)によるクーデターで滅亡し、統一から約40年という比較的短命な王統に終わった(第二尚氏王統の成立)。しかし、尚巴志が成し遂げた「三山の統一」と「明との冊封関係に基づく中継貿易国家の確立」は、その後の琉球王国の約450年にわたる存続と繁栄の決定的な前提となった。
室町時代の日本列島が有力守護大名による割拠、そして戦国時代へと向かっていた同時期に、東シナ海の要衝において強力な統一王権を打ち立て、国際的な商業国家を創出させた尚巴志の事績は、単なる一地方史にとどまらず、東アジア海域史においても極めて重要な意義を持っている。