バサラ(婆娑羅) (ばさら)
【概説】
鎌倉時代末期から南北朝時代にかけて流行した、身分秩序や伝統的な権威を無視し、華美な服装や派手な振る舞いを好む社会的風潮。旧来の公家や寺社の権威が失墜し、実力を背景にした新興武士層が台頭する「下克上」の気風を強烈に象徴する文化事象である。
語源と意味の変遷
「バサラ」の語源は、サンスクリット語で「金剛石(ダイヤモンド)」を意味する「ヴァジュラ(vajra)」に由来するとされる。本来は、非常に硬くすべてを打ち砕くという意味合いから、平安時代頃までは雅楽などの音楽や舞踏において、あえて伝統的な拍子やテンポを外し、自由に演奏して打ち破るような技法を指す言葉であった。
これが鎌倉時代後期以降になると意味が転じ、身分不相応で華美な服装をまとい、既存のルールや常識をあえて踏みにじるような、常軌を逸した派手な振る舞いや、そうした行動を好む人々のことを「バサラ」と呼ぶようになった。
動乱の時代背景と「下克上」
バサラが流行した14世紀は、鎌倉幕府の滅亡、後醍醐天皇による建武の新政の挫折、そして南北朝の動乱へと続く激動の時代であった。この過程で、荘園領主であった公家や大寺社の権威は地に落ち、代わって武力と経済力を蓄えた新興の武士(悪党や国人など)が歴史の表舞台に躍り出た。
彼らは、家柄や身分といった旧来の秩序にとらわれず、自らの実力のみで生き抜こうとした。こうした実力主義の風潮こそが「下克上」の萌芽であり、バサラはその下克上の精神を、服装や行動といった目に見える形で強烈に表現した自己主張のスタイルであったと言える。
バサラ大名たちの振る舞いと美意識
この時代、バサラの気風を体現した有力武将たちは「バサラ大名」と呼ばれた。その代表格が、足利尊氏の側近として権勢を振るった佐々木道誉(高氏)や高師直、あるいは土岐頼遠らである。
佐々木道誉は、大原野の妙法院の領地をめぐるトラブルから同院を焼き討ちにするという暴挙に出る一方、流罪に処される際には、道中を華美な装束で着飾った数百人の行列でパレードのように練り歩き、人々の度肝を抜いた。また土岐頼遠は、道で遭遇した光厳上皇の牛車に対し、「院か、犬か」と嘲笑して矢を射かけるという前代未聞の狼藉を働いている。
彼らの行動は粗暴に見えるが、単なる無法者であったわけではない。道誉に代表されるように、彼らは連歌、茶の湯、立花などの新しい文化に深く精通し、独自の鋭い美意識を持っていた。バサラとは、破壊的でありながらも、新しい時代の文化を創造する前衛的(アバンギャルド)なエネルギーに満ちたものでもあった。
幕府の規制と『太平記』における批判
足利尊氏が室町幕府を開くと、武家政権として社会の秩序を回復させる必要に迫られた。1336年(建武3年)に制定された幕府の基本方針である『建武式目』では、第一条で「倹約を行はるべき事」として、真っ先にバサラ的な派手な振る舞いや贅沢を禁止している。これは、バサラが当時の社会秩序をいかに大きく揺るがしていたかを示す証左である。
また、同時代に成立した軍記物語『太平記』においては、バサラは伝統的な価値観を破壊する悪習として否定的に描かれている。旧体制側の知識人たちから見れば、彼らの振る舞いは言語道断の悪行であったが、その批判的な記述を通して、皮肉にもバサラ大名たちの強烈な個性が後世に生き生きと伝えられることとなった。
歴史的意義と後世への影響
バサラの風潮自体は、室町幕府の体制が安定するにつれて次第に収束していった。しかし、彼らが旧来の権威を否定し、実力と独自の美意識で世を渡ろうとした精神は、日本文化に大きな影響を与えた。
バサラ大名たちが愛好した茶や連歌などの遊芸は、やがて室町時代の北山文化や東山文化の基盤となっていった。さらに、常識を打破し、奇抜な振る舞いで自己を主張する反骨の美学は、戦国時代末期から江戸時代初期にかけての「傾奇者(かぶきもの)」へと受け継がれ、後の歌舞伎などの大衆文化を生み出す源流の機能も果たしたのである。