佐々木導誉(高氏) (ささきどうよ/たかうじ)
【概説】
南北朝から室町幕府の草創期にかけて活躍した近江国出身の有力武将。足利尊氏・義詮の2代にわたり幕府の重臣として政界をリードする一方、既存の権威を否定する「バサラ」の代表格として知られ、連歌や茶の湯などの古典文化・新興文化に深く通じた一時代を代表する文化人。
幕府創設への貢献と足利氏への臣従
佐々木高氏(のちに出家して導誉と号す)は、近江国の名門守護である佐々木氏(京極家)に生まれた。鎌倉幕府の執権・北条高時から一字を賜るなど、当初は幕府と親密な関係にあったが、元弘の乱が勃発すると足利高氏(尊氏)とともに後醍醐天皇の側に立ち、六波羅探題の攻略に貢献した。
建武の新政崩壊後、後醍醐天皇と足利尊氏が対立すると、一貫して尊氏を支持した。新田義貞や北畠顕家ら南朝側の有力武将との激しい戦闘を勝ち抜き、室町幕府の創設に多大な功績を挙げた。2代将軍・足利義詮の時代には政界のフィクサーとしての地位を確立し、執事(のちの管領)の任免や有力大名間の調停を主導するなど、草創期の幕府政治における安定化装置としての役割を果たした。
権威を排する「バサラ」の美学と室町文化への足跡
軍記物語である『太平記』において、導誉は「バサラ大名」の代表格として、数々の破天荒な逸話とともに描かれている。「バサラ(婆娑羅)」とは、当時の社会秩序や既成の権威を否定し、華美な装束や粋で勝手気ままな振る舞いを好む美意識や流行を指す。導誉は、比叡山延暦寺の門跡寺院である妙法院を焼き討ちにして佐渡国への流罪を言い渡された際、道中を優雅な大名旅行のように演出するなど、宗教的・伝統的権威に激しく反発した。
しかし、その振る舞いは単なる粗暴なものにとどまらず、深い文化的素養に裏打ちされていた。導誉は連歌、茶の湯、いけばな(立花)、香道など多岐にわたる分野で当代一流の実力を誇った。特に連歌においては、公家の二条良基と親交を結んで初の勅撰連歌集である『菟玖波集』の編纂を強力に経済支援し、武家独自の新たな美意識を世に認めさせた。彼のこうした先進的な美のセンスは、のちの室町文化(東山文化など)の発展に決定的な影響を与えることとなった。