林下
【概説】
室町幕府による保護と統制の枠組みであった五山・十刹の制の外にあり、在野で独自の厳しい修行を重んじた禅宗寺院の総称。臨済宗の大徳寺や妙心寺、および曹洞宗の諸寺院がこれに該当する。中央権力と距離を置くことで純粋な信仰を維持し、地方武士や民衆、のちには新興の町衆へと広く普及した。
「官林」としての五山十刹との対比
鎌倉時代末期から室町時代にかけて、日本の禅宗は大きく二つの潮流に分かれた。一つは、室町幕府の庇護のもとで官僚制的に組織化された五山・十刹(ござん・じっさつ)の系統である。これらは「官林」や「公方禅」とも呼ばれ、足利将軍家や守護大名と深く結びつき、政治や外交、さらには漢詩文を重んじる五山文学などの華麗な文化を生み出した。しかし、幕府との癒着は同時に、禅本来の厳しい修行の形骸化や世俗化を招くこととなった。
これに対し、権力からの庇護を拒み、独自の厳しい禅風を維持しようとした一派が林下である。「山林の下」に引退して修行に専念するという意味からその名がつけられ、幕府の統制や格付け制度の外側で、自己の内面を深く追求する姿勢を貫いた。
曹洞宗の地方展開と臨済宗「応灯関」の興隆
林下を代表する勢力は、曹洞宗と、臨済宗の「応灯関(おうとうかん)」と呼ばれる系統であった。曹洞宗は、道元が確立した厳しい只管打坐(しかんたざ)の精神を引き継ぎつつ、第4世代の瑩山紹瑾(けいざんじょうきん)らによって地方への布教が本格化した。彼らは加賀の大乗寺や能登の總持寺を拠点とし、在来の民間信仰や祈祷、葬儀などを柔軟に取り入れることで、地方の武士や農民の心を掴み、全国的な巨大教団へと成長していった。
一方、臨済宗における林下は、大応国師(南浦紹明)・大燈国師(宗峰妙超)・関山慧玄の頭文字をとった「応灯関」の系統である。京都の大徳寺や妙心寺がその代表であり、世俗化に抗う純粋な禅風を維持した。大徳寺は一時的に十刹に列せられたこともあったが、後にその地位を辞退し、再び林下としての立場を明確にしている。のちの室町後期には、大徳寺の一休宗純などの個性的な禅僧が輩出し、その自由闊達な精神が多くの人々に支持された。
戦国時代における発展と近世への継承
応仁の乱によって京都が荒廃し、室町幕府の権威が失墜すると、幕府の庇護に依存していた五山派は急速に衰退していった。これとは対照的に、自立的な基盤を持っていた林下は、戦乱の時代に新たな展開を見せることとなる。
大徳寺や妙心寺などの臨済宗林下は、堺や博多といった都市の町衆(富裕な商人)や、領国内の秩序維持や精神的支柱を求めた戦国大名(織田信長、豊臣秀吉、武田信玄など)の帰依を受け、都市文化や茶の湯(茶道)と深く結びつきながら復興・発展をとげた。この林下の生命力の強さは近世へと引き継がれ、江戸時代における禅宗(妙心寺派や大徳寺派、および曹洞宗)が日本の仏教界で主流を占める原動力となった。