観阿弥

結崎座(観世座)を率い、田楽の曲舞を猿楽に取り入れて芸術性を高め、京都の今熊野での演能で足利義満に見出された人物は誰か?
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重要度
★★★★

観阿弥 (かんあみ)

1333〜1384

【概説】
室町時代前期の猿楽師であり、大和猿楽四座の一つである結崎座(後の観世座)の創始者。田楽や曲舞(くせまい)のリズムを猿楽に取り入れて芸術性を飛躍的に高め、室町幕府第3代将軍・足利義満の庇護を受けて能楽大成の基礎を築いた。

大和猿楽の台頭と結崎座の創設

観阿弥(本名:清次)は、鎌倉時代末期の1333年、伊賀国あるいは大和国周辺に生まれたとされる。当時の芸能界では、寺社に奉仕する猿楽(さるがく)と、農耕儀礼から発展した田楽(でんがく)が人気を二分していた。特に田楽は、鎌倉幕府の北条高時が熱中し、その後も足利尊氏などの武家社会において圧倒的な支持を得て流行していた。

これに対し、大和国(現在の奈良県)の興福寺や春日大社を本拠として活動していたのが大和猿楽四座(円満井座、坂戸座、外山座、結崎座)である。観阿弥はこのうちの結崎座(ゆうざきざ)を率い、後に観世座(かんぜざ)と呼ばれる座の創始者となった。彼は、田楽の陰で停滞気味であった猿楽の復興と発展を目指し、他ジャンルの芸能の長所を積極的に取り入れるという柔軟かつ野心的な姿勢を見せた。

曲舞の導入と演劇的革新

観阿弥の最大の功績は、当時庶民の間で大流行していた曲舞(くせまい)の要素を猿楽に取り入れたことである。曲舞とは、強いビートを伴うリズミカルな音楽に合わせて、物語を舞い謡う芸能であった。観阿弥は、この曲舞のリズムや旋律を猿楽の謡(うたい)に導入することで、従来の滑稽な物真似を中心とした寸劇から、豊かな音楽性と物語性を持つ歌舞劇へと劇的な転換を図った。

また、ライバルであった田楽が持っていた「幽玄(優雅で美しい情趣)」の要素をも吸収し、泥臭かった猿楽を高度な舞台芸術へと昇華させた。この音楽的・演劇的な革新により、観阿弥の猿楽は貴族から庶民まで幅広い階層から圧倒的な支持を集めるようになった。代表作である『自然居士(じねんこじ)』や『卒都婆小町(そとばこまち)』は、今日でも上演される名作として知られている。

足利義満との出会いと権力による庇護

観阿弥の運命、ひいては日本演劇史の方向を決定づけたのが、1374(文中3/応安7)年に京都の今熊野(いまぐまの)神社で行われた猿楽の興行である。この舞台を観覧したのが、まだ若き室町幕府第3代将軍の足利義満であった。義満は観阿弥の洗練された演技と、舞台に立つその子・世阿弥(ぜあみ)の類まれな美しさと才能に深く魅了された。

これ以降、義満は結崎座を幕府の御用座として強力に庇護するようになる。当時、将軍や有力大名が特定の芸能を庇護することは、単なる趣味にとどまらず、自らの文化的権威や富を誇示する政治的パトロンとしての意味合いを持っていた。義満という絶対的な権力者から莫大な財政的・社会的支援を得たことで、観阿弥と世阿弥は興行の資金繰りにとらわれることなく、ひたすらに高い芸術性の探求に専念できる特権的な環境を手に入れたのである。

日本演劇史における歴史的意義

観阿弥が築き上げた革新的な猿楽能の基盤は、彼の死後、息子の世阿弥によってさらに理論化され、幽玄を極めた能楽として大成されることになる。もし観阿弥が他芸能の要素を貪欲に取り入れて高い芸術性を構築し、将軍の目に留まるだけの魅力を作り出していなければ、猿楽は単なる寺社の奉納芸能の一つとして歴史の波に埋もれていた可能性が高い。

観阿弥の生涯は、南北朝時代から室町時代にかけての動乱期にあって、身分の低かった芸能民がいかにして時の最高権力者と結びつき、日本を代表する古典芸能の礎を築き上げたかを示す象徴的な事例である。彼の切り拓いた道は、現在ユネスコの無形文化遺産にも登録されている能楽の歴史の偉大な第一歩として、極めて重要な位置を占めている。

観阿弥と世阿弥 (岩波新書 青版 719)

能楽を大成させた父子の芸術的軌跡と歴史的背景を丹念に解き明かし、その思想の深淵に触れる貴重な論考。

世阿弥 (中公新書 292)

稀代の天才世阿弥の生涯を辿りつつ、能の幽玄なる世界が現代に投じる普遍的な美意識を浮き彫りにする名著。

最終更新:2026年6月17日 @ 23:49

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